Dirge
男は、横野と名乗った。おそらく本名ではないし、この店に訪れる人間の一部は特に、偽名を好む。ヤシマはタロットカードを脇へどけると、本題に入るために息を整えた。力では、女である自分は絶対に敵わない。だから、カードが揺るぎない正解をはじき出す占いとは違って、慎重になる必要がある。ある意味、自分の運命もセットで占っているようなものだ。横野は今までに訪れた『その筋』の客とは少し毛色が違って目を引く特徴がなく、感情の起伏のようなものが感じられなかった。ただそこに存在し、心臓が動いているから生きているだけに見えるぐらい気配が薄く、タロットカードよりも精神科医に任せた方がいいのではないかとすら思える。しかし、身体的には弱々しく見えないどころか、その逆だ。黒の半袖ポロシャツから覗く腕は太く、背も高い。少し眠そうに見える伏せがちな目は、明確な意思を湛えてこちらに向けられている。頭脳と腕っぷしの両輪で物事を解決するタイプの人間であるのは、間違いないだろう。ヤシマは、ここが自分の巣であることを意識しながら、目で本題に入る合図を送った。『占』と書かれた看板に、猫の額ほどの空スペース。観光客が訪れる賑やかな通り沿いにある、余所者だけが大手を振って歩き回れる場所。ここに店を構えたのは、七年前のことだ。大学時代に友人と始めた占いが意外に楽しく、喫茶店のスペースを借りて客の占いをしている内に、その知識はどんどん深くなり、色んな人間の秘密を知ることになった。そこに目をつけたのは、手の甲に蜘蛛の入れ墨が入ったひと回り年上の男だった。シミズという名前で、人が占いを依頼した内容について、しつこく聞きたがった。このとき、プライバシーの侵害というキーワードが頭に浮かんだが、シミズはそういう情報で生計を立てているらしく、入れ墨の蜘蛛のようにあちこちに網を広げて、知らずに足を踏み入れた『被害者』を絡めとっていた。
『自分ら、個人情報の宝庫よ』
シミズの言う通り、タロットカードは形だけで、相談に乗るだけのときもあった。やがてそっちがメインの依頼になっていき、ガラの悪いシミズを警戒した友人は、手を引いた。自分は、そうならなかった。むしろシミズとの会話は楽しく、喫茶店の『出張占い所』は、そこから三年続いた。そして、ある日突然シミズは知り合いのツテを辿って海外に出ると言った。それが、ここだった。仕事内容は全く逆で、個人情報を収集する場ではなく、情報のやり取りをする場として使う。つまり、占い師に見せかけた情報屋だということだ。シミズはあちこちに顔を出してアンテナを張り、客を集めている。いびつな形をしたネットワークで、コンピュータ越しにキーボードのひと押しで終わる場合もあれば、実際に人と対面しなければ話が進まないということも、あり得る。
ヤシマの頭の中に色々な考えが渦巻く中、横野はポケットからメモ用紙を取り出して、静かな口調で言った。
「これをお願いします」
ヤシマは相槌の代わりに同じ表情を作ると、横野がテーブルの上に置いたメモ用紙を引き取った。そして、改めて横野の外見を点検するように見渡した。どちらかというと細身な部類に入るが、マラソン選手のようにバネのようなしなやかさが見てとれる。服は暗い赤色のTシャツにブルージーンズ、靴はメレルのトレッキングシューズで、グレーのローカット。メンテナンスの跡が残る腕時計は、タグホイヤーの古いモデル。爪は綺麗に切り揃えられていて、脇に置いてあるのは、パスポートやお泊り用品を一式詰め込んでいそうな、アークテリクス製のコンパクトなバックパック。どこから見ても、観光客だ。この国は、岩を削り出しただけの土地に名前をつけて、絶景として売り出している。トレッキングスポットはあちこちにあり、日系の住民も多い。だから、横野のような外見の観光客が訪れるのは、決して不思議ではない。山歩きを趣味にする三十代の男からすれば、異国情緒に触れながら長めの休暇を過ごすには、ちょうどいい国だ。
しかし、このメモ用紙に書かれた単語を見る限り、この男は観光客ではない。
「必要なのは、タテヨコです」
「はい」
静かに応じてから、ヤシマはノートパソコンに視線を向けた。タテヨコというのは、この店の中だけで通じる『用語』で、緯度と経度のことだ。少なくとも横野は、この店のルールを予習済みということになる。メモに書かれているのは、いわゆる『取引場所』のひとつで、人がよく集まる繁華街の一角。人目があるからお互いに手出ししづらいという理由で、『商品』の受け渡しに使われることが多い。XXXという昔ながらのネオンサインが近くにあるから、仲間内では単純に『エックス』と呼ばれている。おおよそ百はある地点のひとつだから、ここの場所を提供したところで、ネットワークは何も変わらない。ヤシマが座標をメモに書き留めると、横野は封筒に入った現金を差し出した。取引が終わり、横野はバックパックを背負うと、観光客然とした歩き方で店から出て行った。
ヤシマは、手にじわりと浮いた汗を服の袖で拭うと、スマートフォンを取り出し、シミズにメッセージを送った。
『エックスの場所を聞かれました。当面、使わないほうがいいと思います』
スマートフォンをテーブルに置くのと同時に、返信が届いた。
『了解。見た目は?』
ヤシマは、横野の特徴を全てメッセージに起こして、送信ボタンを押した。既読状態になっただけで返信はなかったが、仕事はとりあえず果たした。情報屋というのは確かに、個人情報の宝庫だ。しかし、その情報が事件を引き起こすことは多々ある。同じ手汗が浮いたのは、半年前のことだった。窓が爆風で粉々になったショッピングモール。死者は十七人で、非番の警察官が二人含まれていた。報道によると標的はその二人で、残り十五人は巻き添えだった。二人の警察官と、その居場所。点と点だったはずの情報を結んだのは、自分が提供した『個人情報』だった。
依頼人は、写真に写っている警察官の名前を教えてほしいと言い、警察の内通者を通じて情報を得た。爆発が起きたのはその一週間後だ。間接的に人を殺したという事実は、手の中に残り続けた。同時に、シミズがいかに危ない仕事に関わっているかということに、改めて気づいた。
二人の警察官は、昔からこの辺を取り仕切る犯罪組織に迎合することなく、自分の正義を貫き通していた。地元民からも支持されていて、どんな犯罪にも目を瞑ることなく、非番であっても市民の安全に目を光らせていたらしい。その正義感には感服するが、犯罪組織を前に太刀打ちできるかというと、それはまた別の話だ。だから、正義の使者である警察官二人は、最も巻き添えを食わせる方法で退場することになった。起爆したのは、ヤスナカだろう。シミズの古い仲間で、腕利きだ。逮捕者は出ず、市民は口を開こうとはしないが、それが犯罪組織の犯行であることは誰もが知っている。そしてこのとき、シミズがこの組織の構成員であり、いつの間にか自分もその一員となっていたことに気づいた。