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SFと歴史の分岐点小説

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この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年7月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。

                 プロローグ

「質より量」
 ということで、アマチュアながら、ずっと小説を書いている人がいる。
 普段はサラリーマンをしているが、
「趣味で小説を書いている」
 ということで、最近では、同僚などもそのことを分かっているのだが、以前は、恥ずかしさからか、
「大した趣味はないですよ」
 とうそぶいていた。
 しかし、
「趣味がない」
 というと、
「飲みに行こう」
 という同僚の誘いが断れないと思い、一度、
「悪いんだけど」
 といって、
「趣味で小説を書いている」
 ということを正直に話すと、
「なんだ、そうだったのか。それならそうといってくれればいいのに」
 といって、笑ってそれからは誘わなくなってくれた。
 その同僚も、本来であれば、
「自分も何かの趣味を持ち、人を誘うことがなくなれば、それに越したことはない」
 と思っていた。
 しかし、実際には、
「ちょっと何かをかじってはみるが、すぐに、
「俺にはできない」
 とあきらめてしまう。
 そもそも、
「趣味というのは楽しいもの」
 ということで、
「いくら生みの苦しみといっても、苦しみを伴うようなことはしたくない」
 という思いがあるから、どうしても楽な方に流れると、
「酒を飲んだり、旅行に出かけたり」
 という趣味に走るのだった。
 それでも、
「旅行に出かける」
 というのは、まだ、
「アクティブな趣味」
 ということで、悪い趣味ではないといってもいいだろう。
 そういう意味では、主人公の長瀬勉も、学生時代から、
「旅行に出る」
 ということが好きだった。
 しかし、社会人になってからは、旅行に出ることはほとんどなくなった。
 彼の場合に旅行というと、最低でも三泊四日というのが、自分の考え方であった。
「ただ、どこかに出かけて、温泉に入ったりするだけでは、旅行とはいえない」
 と思っていたからだ。
 少なくとも、現地から数か所を回らないと気が済まない。それだけに、旅行というと、
「観光地」
 というよりも、
「名所旧跡」
 であったり、
「神社仏閣」
 などというのを見て回るのが好きだった。
 そして、大学時代には、そこに、
「お城巡り」
 というものが加わった。
 お城というと、どうしても、
「天守の壮大な佇まい」
 というものに目が奪われがちだが、歴史を勉強していると、
「天守を持たない城がどれだけ多いか?」
 ということ。
 そして、
「天守以外にも、石垣、櫓、門などと、見るべきところがいっぱいあるというのが、城の醍醐味なのだ」
 ということであった。
 中には、
「城郭の中に、神社がある」
 というところもあったりして、それらがまた、
「歴史を感じさせる」
 ということで、その時代背景や、
「群雄割拠」
 というものを感じさせられるのであった。
 また、城の歴史というと、どうしても、戦国時代以降という意識が強い。
 なぜなら、近代城郭の基礎となったのが、
「戦国の城」
 ということだからだろう。
 ただ、
「城の歴史」
 というのは、結構古いもので、実際に、どこからを城郭といっていいかは難しいところであるが、少なくとも、
「何か特定の外敵から守るため」
 ということを考えると、
「飛鳥時代」
 からではないかといえるだろう。
 というのが、時代としては、
「大化の改新」
 の真っ最中という時代のことである。
「大化の改新」
 というと、
 飛鳥時代に、隆盛を極め、天皇家と同等程度の勢力を持っていた蘇我氏というものを、中臣鎌足と中大兄皇子のクーデターによって、蘇我氏を滅ぼしたことで、
「天皇を中心にした、中央集権国家」
 として、大陸に倣った、
「律令制度」
 と呼ばれる、日本最初といってもいい、
「法治国家」
 の建設を目指したものであった。
 その時、ちょうど、朝鮮半島において、それまでの、
「三国体制」
 といってもよかった均衡が崩れたのだ。
 高句麗、新羅という王朝が、もう一つの王朝である、百済に攻め込み、百済を攻め滅ぼしてしまったのだ。
 そこで、百済の残党が、百済復興を目指し、かねてより信仰の深かった日本の国に対して、助けを求めてきた。
 当時の天皇は、それに応じ、朝鮮半島に、
「百済復興」
 というものを目指し、大軍を送ったのだが、高句麗、新羅の連合軍に、大敗を喫することになってしまった。
 これでは、
「百済の復興」
 どころか、
「我が国日本が、攻められることになる」
 ということで、
「国防」
 というものが最優先となったのだ。
 半島からせめてくるとなると、筑紫の国が攻められる可能性が一番高いということで、筑紫の国の方々に、防衛施設を築くことになるのだが、それが、
「古代の山城」
 といわれる、防衛施設であった。
 実際には、近代城郭のような、門や、石垣もなければ、濠もない。
 しかし、当時の武器に対しての十分な防衛ができるほどの施設であったおは間違いないようで、筑紫国のあちこちに作られたという。
 これが、今も残る城の始まりといってもいいだろう。
 実際に、半島から日本に攻めてこられることはなかったが、国防の基礎ということで、それ以降も、城というものは、いろいろなところに作られたということである。
 それが武家時代になってから、さらに増えた、一番増えた時期というと、たぶん、
「鎌倉期から、南北朝の時代」
 くらいからではないだろうか?
 今残っている
「お城」
 と呼ばれるところの築城年ということになると、その時代は、
「南北朝の時代と呼ばれる、14世紀頃が結構多かったりする」
 という。
 山城ということで、山の上に出城を作っておいて、その麓に屋敷を作る。
 敵に攻められた時、屋敷を捨てて、裏にある城に立てこもるということで、
「籠城に適した」
 という山城は、重宝されたことだろう。