悠々日和キャンピングカーの旅:⑭西日本の旅(山陰(後編))
橋を渡り終えてからぐるりと回りながら下り、その先の交差点を左に折れ、橋を見上げる場所に駐車場があり、橋をバックに「ジル」の写真を撮った。桁下空間というものは、下から見上げた際に、その高さや幅が実際の寸法より大きく見えるのかもしれない。
島根半島の南側は、半島の山がストンと美保湾に落ち込む地形で、そこに県道が設けられている。幾つかの漁港と漁村を通過して、三保関(みほのせき)漁港に着いた。
日本海の荒波を島根半島の北側が受けるため、南側の天然の良港の三保関は、江戸時代には北前船の風待ち港として賑わい、一日千隻もの船が出入りしたといわれている。
半島内にある「三保神社」は多分、航海の安全を司る神様なのだろう。それでも、陸を走る「キャンピングカーの旅」の安全を祈願したいと思い、財布を忘れていることに気付いたが、お賽銭なしで祈願した。
「三保神社」の一の鳥居と二の鳥居の間に、いわゆる寺社の門ほど豪華ではないが瓦屋根の門があり、その左側の柱には「西廻り海道 美保の関 青石畳通り(あおいしだたみどおり)」と書かれた大きな看板が掲げられ、門の上からは4つの提灯が吊るされており、それぞれに一文字ずつ書かれ、「萬来深謝」と読めた。
門を潜ると石畳の狭い路地が奥の方まで続き、少し前まで雨が降っていたのか、石畳は濡れていて、それも手伝い、昭和の頃を感じさせる落ち着いた雰囲気の家並みが続いていた。
この「青石畳通り」は佛谷寺(ふっこくじ)まで続いているようで、神社と寺院を結ぶ「通り」はかつて、北前船の西廻り航路の寄港地として栄えたとのこと、多くの人々で賑わった往時が偲ばれた。
「通り」を歩き進むと、「美保関資料館」があり、そこには、神々の伝説に彩られた美保関の歴史や北前船の模型があり、往時の繁栄ぶりを伝えていた。なお、この「通り」は、未来に残したい「漁業漁村の歴史文化財産百選」のひとつとのことだった。
昭和の時代から令和に戻り、「ジル」で三保関灯台へ向かった。
地蔵埼の高台の標高73mに灯台が立っているため、県道の最後はかなりの登り坂になっていて、広い駐車場に出たものの、駐車しているクルマは殆どなく、灯台に続く遊歩道の入口に一番近い場所に「ジル」を停めて、小走りに灯台に向かった。
塀で囲まれた灯台の敷地の入口の門は閉まっていて、午後4時を過ぎていて営業時間が終わったようだ。日本にはのぼれる灯台(参観灯台)が16基あり、これまでに半数ほどのぼってきた。この灯台はのぼれる灯台ではなく、敷地内にも入れなかったが、それほど落胆はしなかった。
灯台の敷地の外をぐるりと回りながら、数隻の船が浮かんでいた美保湾越の大山を探したが、まだ雲が掛っており、その山容を見ることはできなかった。
一方で、日本海を眺めると、重たそうな黒い雨雲の下に、霞んではいたが、隠岐島(おきのしま)が見えた。島前(どうぜん)と島後(どうご)が明確に分からず、ひとつの島のようにしか見えなかった。そして、手前の目をやると、そこは絶壁で急峻な崖が海に落ち込んでいた。
その景色を見ていると、日本海側に稲光が見え、雷鳴が響き渡った。ひょっとしてと思い、足早に「ジル」に戻ると同時に大粒の雨が降り出した。
そこからは、境港駅から続く「水木しげるロード」に寄るかどうか迷ったが、間もなく午後5時になるので、このまま島根半島の中海に面した道の駅「本庄(島根県松江市)」を目指した。ちょっと早めだが、今日のゴールとした。
不安定な天気の今日は、雨が降ったり晴れたり、その繰り返しだったと思い出しながら湯を沸かして、ドリップコーヒーを淹れて、テレビのスイッチを入れると、この出雲地方の全ての地デジ放送が映った。
その中のNHKニュースを見ていると、松江の冬の風物詩の「こたつ船」の往来が松江城のお堀で始まったという話題が放送されていた。
夕食は電子レンジで温めるだけのパックご飯とレトルトカレーで、その上に、やはりレンジで温めたウィンナーをトッピングした。素早く準備ができて、就寝前までの時間を確保した。
昨日と今日の「旅のメモ」を書き上げて、立ち寄った道の駅をガイドブックにチェックして、走った道をロードマップにトレースして、最後に、明日の予定を立てることだ。今夜は、その全てを完遂した。
【今日の一言】 朝の蒜山高原の紅葉の美しさは最高だった。