骨のナイフ
そういいながら、家来は海の様子を気にしています。もし人魚を安全に逃がすには、潮の流れを考えなければならないからでしょう。彼も人魚姫と同じで、王子がこのかわいそうな人魚を海に放すよう命じるだろうと確信しているに違いありません。
「いや……」
王子の唇がかすかに動き、否定の言葉を口にします。彼の目が、海に漂う夜行虫のように不気味に輝きます。
「聞く所によると、人魚を食べると不死になれるとか」
人魚姫は、自分が驚きで目を見開いているのがわかりました。
「私は、あの嵐の日、海で死にかけた。その時の、なんと恐ろしかったこと! 体は動かず、少しずつ冷えていき、目の前は真っ暗だ! 息が出来ず、助けを求める自分の声すら聞こえない。死ぬのは嫌だ、また、あんな思いをするのは!」
王子の形のいい唇が、醜く吊り上がります。これが、あの優しかった王子様でしょうか?
「確か、男より女に殺された人魚の方が強い魔力を持つと言う。私の花嫁、こいつを殺して料理してくれないか」
花嫁は、顔を真っ青にしてただ首を横に振ります。刃物でさばくには、人魚はあまりにも人間に似すぎているのです。
「ええい、役立たずめ! 誰かいないのか、誰か」
王子の目が、人魚姫を捕らえました。手に持っていたナイフに気がついたのです。
「おお、お前がやってくれるか。そうしてくれれば、あの役立たずを捨て、お前を新しい花嫁にしてやってもいいぞ」
ああ、それをどんなに望んでいたことでしょう。しかし、それには姉を殺さなければならないのです。それに、人魚姫の好きだった優しい王子様は自分の妻に『役立たず』なんて言わないはずです。
『泡になりたくなければ、王子を殺すのです』
姉に夢中な今なら、人魚姫にも簡単に王子を殺すことができるでしょう。そうすれば泡にならずにすみ、姉と一緒に懐かしい海へ帰ることもできるに違いありません。
けれど、王子が死を怖がるのも人魚姫には少しわかりました。今まで泡になって消えることを怖れていたのですから。
『お前を新しい花嫁にしてやってもいいぞ』
『あなたは、王子を買いかぶっているわ。良心だけの人間なんていないというのに』
お姉さんと王子の言葉が、ぐるぐると渦のようにねじれ、人魚姫の頭の中をまわります。
『お願い、助けて!』
人魚にしか聞こえない声でお姉さんが叫びました。