記憶喪失の正体
という目的のために、裏でかなりの暗躍があったことだろう。
「普通の正攻法では勝てない」
ということでの、情報戦であったり、
「新兵器開発」
などというのも行われていた。
そういう意味では、軍も政府も、
「勝ち負けを度返しして、やみくもに戦争に突入した」
というわけではなかった。
問題は、
「辞めることの難しさ」
というものを分かってはいただろうが、
「すでに戦争を始めた時点で、手遅れだった」
ということにあることだったのだ。
よく、
「歴史が答えを出してくれる」
という表現をすることはあるが、果たして、
「歴史の答え」
というのは、どの時点のことをいうのだろうか?
そういうことで、日本軍は、日本のあちこちに、
「秘密の兵器研究所」
というものを作っていた。
中には、
「軍需工場に扮して、実は研究所を作っているところもあった」
ということであるが、すぐに、そこは従来の軍需工場に戻った。
というのは、
「基本的に、攻撃は、軍の施設であったり、軍需工場に対して行われる」
ということなので、
「最初から攻撃目標にされるだけ」
ということだった。
しかし、それでは、破壊されるのを待つだけなので、
「攻撃目標にされることのないところ」
ということで、
「病院や学校」
などという、
「病人や子供がいるところ」
というものをカモフラージュするということで、
「病院などが、そのターゲットになったのだった。
一見、
「病院かサナトリウムに見え、実際に、入院患者もいる場所であれば、兵器研究をしていても、攻撃されることはない」
ということ、
さらには、
「田舎の山の中で、しかも、森におおわれたところで、まわりには何もなければ、攻撃対象となることもない」
と考えたのだ。
実際に日本軍の一部では、
「日本にある、まわりを森に囲まれm中央が池になっている」
といところが、比較的多いということを感じていて、そこを、
「ひそかに、軍の秘密基地」
ということにしようと考えていた。
実際の訓練などをその場所で行うわけではなく、秘密基地として利用する中で、
「研究所建設」
という発想が生まれてきたのだ。
「日本人の技術は最先端を行っている」
ということは、政府も軍も分かっていた。
もっとも、これは、
「敵対している国の方が、よくわかっている」
ということであり、
「日本が絶えず、新兵器を開発している」
というウワサが絶えず、敵国内に広まっているということだったのだ。
「その兵器がどのようなものか?」
というところまではハッキリと分かっていなかったが、
「日本国の持てる技術をもってすれば、戦争においても、一矢を報いることができる」
と思っていた。
もちろん、
「完全勝利」
などということは考えていない。
日露戦争の時のように、いいタイミングで講和に持ち込み、なんといっても、
「あの弱小日本が、欧米列強に対して戦いを挑んで勝利した」
という事実だけがあればいいのだった。
それによって、日本は、
「名目だけでも大国の仲間入り」
ということになり、うまく世界から乗り遅れないことになるのだ。
そもそも、それまでの日本は、
「対外戦争では負けたことがない」
という国だった。
「日清、日露、第一次大戦」
とすべて、
「形の上では、勝ち組に入っている」
ということであった。
そんな国だという自負が、国民にもあり、さらに、日本という国の国民性ということで、
「かつての軍人の犠牲の下に、今の地位がある」
ということを考えていた。
だから、経済制裁をされた時であっても、
「勝ち目はない」
ということで、列強の言い分を飲んで、
「大陸からの撤退」
あるいは、
「満州国や、海外での権益の放棄」
などというのは、
「ありえない」
といえるだろう。
「かつての戦争で死んでいった英霊に、申し訳が立たない」
というのが大きな名分で、要するに、
「一度歩み始めれば、途中で投げ出すということはありえない」
というのも、日本人という国民性なのかも知れない。
それを考えると。戦後の日本には、かつての
「秘密研究所」
などというものがたくさん残っているといってもいいだろう。
この池のまわりの森にある建物も、完全に秘密研究所だったということだろう。
今は、老朽化はしていて、建物も何度か建て直されたが、その外観は、昔のままのたたずまいになっていた。
近代的な建物にしてもよかったのだが、地元の意見としては、
「昔のたたずまいを残してほしい」
というものであった。
たたずまいは、昔のサナトリウムの雰囲気であるが基本的には、病院ということになっていて、
「外来もあるにはあるが、基本は入院患者を受け入れる病院」
ということになっている。
「昔のたたずまいを残し、今も現役の場所として、国内でも珍しいところということだったのだ」
記憶喪失の男
この病院に、一週間くらい前、他の病院からの紹介状を持参してやってきた男性がいた。
その人は、
「息子」
という人に付き添われてやってきたのだ。
その人は、
「付き添いがいないと、一人では行動ができない」
ということで、
「いざ、診療」
という時も、患者のそばにずっと付き添っていて、離れることはなかった。
ただ、そのたたずまいには、まったく違和感がなく、それこそ、
「お芝居の中での黒子」
のごとく、そばにいるだけで、
「まるで気配を消している石ころのような存在だった」
ということで、医者は却って、
「気になって仕方がなかった」
といっていた。
ただ、患者の様子を一目見ただけで、病状を聞かずとも、
「ああ、なるほど」
と感じた。
この医者は、すでに年齢は60歳前後ではないかと思われた。
髭も頭髪も真っ白で、白衣から見て、
「完全に博士という雰囲気だ」
と思わせた。
時代的には、今の令和の時代ではなく、まだ、
「昭和の頃」
のことだった。
世間と隔絶されたイメージのあるここは、まだ、戦後すぐの建物が残っていて、
「完全な建て直し」
というのは、まさにその時代からさらに十年近く経ってからのことだった。
「時代というのは繰り返すというが、わしは、今のこの建物が、以前の戦争に入る前の頃を思い出すのじゃった」
とよく言っていた。
当時、博士は、まだ大学生の頃で、その成績を買われ、軍への入隊も視野にあったが、軍の方からは、
「一応軍人であるが、開発として活躍してもらう」
ということから、研究所員として、ここに勤務することになった。
この男は、
「戦争に行って、死んでくる」
ということに対しては、
「怖い」
という思いも、
「それが国民としての義務だ:
という思いもなかった。
どちらかというと、
「怖い」
という方が強かったかも知れないが、それも、
「余計なことを考えない」
と思えば、気持ちを抑えることができるという、他の学生とは一線を画した考え方を持っていたのだった。
ただ、
「研究員としての招集」
というのは、彼にとっては、