記憶喪失の正体
「博士は、岸田という男を見るのに、その目線を、彼女に合わせることにした」
彼女には、
「悪い」
ということになるが、自分の研究のためということで、許してもらえるだろうと考えたのだ。
そして、彼女を通りて岸田を見ているうちに感じるようになったのは、
「蘇生ということ、そして生まれ変わりというのが、不可能ではない」
ということであった。
ただ、
「蘇生」
であったり、
「生まれ変わり」
というのは、今まで考えられている常識というものとは、けた違いの葉圧送であることに違いないと思うのだった。
実際に、
「蘇生」
と、
「生まれ変わり」
というのでは、その種類がまったく違っているものであり、
それが、
「難病克服」
そして、
「そのための、
「難病発見」
というものに、
「どこまで食いついてこれるか?」
ということになるのだった。
さらに考えることとして、
「生まれ変わり」
というものを考えた時、
「もう一つの考え方ができる」
というもので、それが、
「よみがえり」
という発想である。
つまり、
「黄泉の国」
という、
「死者の世界から戻ってくる」
ということで、宗教的にいえば、まさに、
「輪廻転生」
というものに似ている考えといってもいいだろう。
その発想は、
「死を目の前にすると、三途の川」
というものがあり、
「そこを渡ると、死後の世界」
という考え方であったり、
別の考え方として、
「死後の世界に行く前に裁判があり、そこで、どの世界に行くかが決定する」
というものである、
裁判は今の世界からの発想なのか、死後の世界での裁判の発想が、人間界での裁判を作ったのか?
まるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という発想になるのであろう。
要するに、この人は、
「生まれてくる」
ということも、
「死んでいく」
ということも味わったわけである。
普通であれば、
「生まれてくる」
というのは、まだ物心もついていないわけで、生まれてくるときの意識というおがある人はいない。
さらに、死んでいくときも、意識があるのかどうか、死んでしまうのだから、死んだ人は教えてくれるというわけでもないので、それこそ、
「分かるはずがない」
ともいえるだろう。
もっといえば、
「生まれる時」
「死んでいく時」
というものを、
「今の人間が分からない」
というのは、
「何かの力が働いている」
といってもいいのではないだろうか?
それは、
「人間にはどうすることもできないもので、それこそ、
「神様の力」
なのかも知れない。
それこそ、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
ということと同じで、
「死ぬ時も生まれる時も分からない」
ということから、
「人間に、輪廻転生を感じさせない:
という何かの力である。
それを悟ることで都合の悪いものがあるとすれば、それが、
「神様」
というものなのか、
「人間を抑止することで、存在することができる」
と思うような、
「三すくみ」
であったり、
「三つ巴」
と言われるものの一角なのかも知れないと感じるのだった。
それが、一種の、
「生まれ変わり」
というものと、
「黄泉がえり」
というものとの違いだと考えると、
どうしても、そこに、
「輪廻転生」
というものが絡んでくるということになるだろう。
自然の摂理
「輪廻転生」
は、
「自然の摂理」
であったり、
「生態系」
という問題を考えても、ありえることだろう。
宗教によって、考え方は違うが、
「基本的には、
「地獄に行かない限り、最低でも、生まれ変わることができる」
というものだ。
また考え方によっては、
「地獄にいけば、人間以外の虫などに生まれ変わる」
という話もあるが、基本的には、
「生まれ変わることはできず、地獄で、永遠に言葉通りの地獄を味わうことになる」
ということである。
ただ、問題は、
「黄泉がえり」
というのは、
「あの世を経ることもなく」
ということであり、もし、死後の世界を通るのが当たり前の摂理だということであれば、
「それを人間がしてしまっていいのだろうか?」
ということになる、
それこそ、
「生態系を破壊する」
ということになり、元々、
「弱肉強食」
と呼ばれるものであっても、
「生態系の一部」
ということでありなのだ。
そもそも、人間は、
「肉食」
ということで、太古の昔は、狩猟をして生きていたということだ。
つまりは、
「肉食動物」
ということだ。
だから、元々は獣だったといってもいいだろう。
それが、生態系に組み込まれたのがいつなのか分からないが、これも、
「もし、生態系がどこかで変わった」
としても、それについての、
「正悪」
というのは、誰が付けられるというのか。
人間がもし、
「生態系を崩した」
として、それを
「人間の罪だ」
ということになるかというと、非常に難しいところであろう。
というのは、
「今まで、生物が興亡を繰り返してきて、新しく生まれた生物、滅んでいった生物」
と歴史の上では、その
「正悪」
というものをいえるわけではない。
つまり、人間が、今のように自然破壊を続けていき、ひょっとすると、
「今の存在している生物のほとんどを死滅させることになった」
としても、
それは、
「地球上の生態系の一つが変化した」
というだけのことで、地球上の歴史の一ページということにしかならないといってもいいだろう。
つまり、
「人間というものが、何かの使命をもって生まれてきた種類の生物だ」
ということになると、
「最終的に、生態系を壊すことになる」
という種別として、歴史に刻まれることになるだろう。
そこに、
「正悪」
というものを考えるから、
「悪が栄える」
などということになるわけで、弱肉強食というのも、
「弱者が虐げられて、かわいそうだ」
ということになるのだが、
「自然の摂理」
を考えると、
「これはしょうがないことだ」
といえるだろう、
これを悪いというのであれば、
「肉食の人間が、肉を食べるのは悪いことだ」
ということになるだろう。
どんな動物にも、
「天敵」
というものがいるわけであり、
「ある種族が別の動物を食べることで、その動物が死滅しないで済む」
ということになり、それこそが、
「三すくみの関係」
ということになるのである。
「そういう意味で、もし、一つの生物が死滅してしまうとどうなるかといえば、その天敵であった動物を食べるものがいなくなり、今度は異常発生することになるだろう」
一見、その動物にとっては、
「ありがたいことだ」
といえるだろうが、これを人間に置き換えるとどうなるか?
つまり、
「80歳くらいになれば、死んでいた人たちが、100歳を超えても生きている」
ということになるのだ。
「人口はどんどん増える」
ということになり、目の前にある問題としては、
「食糧問題」
ということになる。