Crumb
「規模は小さくなったな。屋台は何軒か残ってるけど、昔みたいに無法地帯とはいかないらしい。仕切りの柳瀬さんも早くに死んじまったしな」
仕切りの柳瀬さんというのは、お化け屋敷の屋台を設営していた気合いの入った爺さんで、おれたちが小学生のころでも、すでに六十代後半だった。おれが思い出していると、南野が枝豆を食べながら残念そうな表情を浮かべた。
「おれたちが大学を出た辺りか? 最後はホームレスだなんてな」
野沢は眉をひょいと上げただけで、おちょこに満たされた日本酒をひと口飲んだ。
「おれは長年住んでるから分かるけど、文教区の割りに治安は悪くなったよ。柳瀬さんが死んだあの辺りが、分岐点だったのかもな」
酒好きだった仕切りの柳瀬さんは、ガード下で死体で見つかった。酒瓶で頭の形が変わるまで殴られていた。おれは言った。
「地元で起きた事件と言えば、あれぐらいか」
南野が枝豆を食べ尽くして、小声で割り込んだ。
「田中、お前の万引きもあるだろ」
白戸先生がいると、ついつい生徒に戻ってしまう。おれは冗談めかした苦笑いを浮かべた。
「反省してるよ」
お化け屋敷の出口でカゴに置かれていた、ひとり一個まで貰える飴。おれは、一個多く取ったところを柳瀬さんに見つかり、怒られた。南野は他の友達と話し込んでいてその場におらず、その後、おれと野沢はたこ焼き屋の前でマヨネーズ抜きのたこ焼きを食べた。確か野沢は腹が痛いと言ってベンチに座り込んでいたが、いざたこ焼きを前にすると勢いよく食べた。その後で南野が合流して、いつも通り三人で帰った。
「飴事件か。まあ、あの飴のせいで呪われてるってのは、あるかもな」
おれがおどけたように言うと、南野は笑ったが、野沢はしかめ面のままおちょこを口に運んだ。
「そんなことないだろ」
「実際、ストレスで体のあちこちに異変が出てる。仕事だけだよ、なんとかなってるのは」
そう言うと、南野がおれの背中をばしんと叩いて笑った。
「シゴデキかよ、おめーは」
「なんだよそれ?」
「仕事ができる人のことだよ。褒めてんだ」
おれは笑った。そして、白戸先生の独演会に付き合い、金井さん一派と久々に話し込んで、また三人組に戻った。夜の九時半に、おれたちは駅で連絡先を交換して解散した。 過去に置いてきたはずの顔。久々に見ると、違う色を纏って色々と蘇る。思い出話に花が咲くというが、もう枯れてしまっている上に、どうしても言えなかったこと。
あの飴には、特別な意味があった。小学四年生の時だったことすら、はっきりと覚えている。その前日に、お化け屋敷をクリアすると飴が貰えるということを、明宏に話した。『ぼくもその飴が欲しい』と言われて、特に約束したわけではなかったが、お化け屋敷を出る直前に思い出した。二つ目を手にしたとき、ちょうど出口にいた柳瀬さんと目が合った。
『こらー、ひとつだって言ってるだろ。呪ってやるぞ~』
そう言われたが、結局飴は二つ貰えた。鞄にしまいこみ、腹が痛いらしい野沢のためにまとめて受け取りに行ったとき、たこ焼きのひとつが指先に触れて、おれは耐えながらベンチに戻った。数十秒だったが、左手の人差し指はじんじんと痺れるように熱を帯びていた。火傷した。野沢とたこ焼きを食べながら、だんだん水膨れに変わっていく指先を眺めていた。その後、家に着く直前で自転車がパンクして、水ぶくれを潰すために台所で爪楊枝を探したが、空っぽのケースが転がっているだけだった。
呪われ始めたのは、その日からだった。
それから自分の身に起きたことを思い出しながら家に帰ると、希実がおれの呪い状況をチェックするように全身を検分した。
「頭の上にバナナの皮は乗ってない。黒猫も横切ってない。川に落ちて水浸しでもない。上出来じゃない?」
「その代わり、酔ってるよ」
おれが言うと、希実は口角を片方だけ上げた。
「それは、分かってるよ。美里はもう寝てるから、見るだけにしてあげてね」
「オッケー」
おれはそう言うと、上着を脱いだ。前に進もうとしたが後ろに引っ張られ、袖の一部がドアノブに引っ掛かっていることに気づいて、笑った。
「電車では何もなかったのに、やっちまった」
「そこに引っかかりますか~、なるほどね」
希実は眉をハの字に曲げて笑うと、上着の袖が抜けないおれを反対方向に引っ張った。
「待てって、上着が伸びるだろ」
「伸びてもいいんだって」
希実は笑いながら手を離し、おれが上着を脱ぎ終えると、言った。
「野沢さんと、南野さんだっけ? 元気そうだった?」
「変わらないな、教室でやってたみたいに、三人で密談してたよ。連絡先も交換した」
「仲良しじゃん。よかった」
布団から顔だけ出してすやすや眠る美里の顔を見て、歯を磨いて寝る準備をしたおれは、先にベッドの上で本を読んでいた希実の隣に滑り込んだ。昔の顔に会ったのだから、昔のことを思い出すのは当たり前のことだ。たこ焼き屋で解散した後、おれは飴を持って帰った。鞄を開けるとなぜかひとつしかなく、明宏にあげるために持ってきたのだからと思って、その飴を布団の上で漫画を読んでいた明宏に渡した。
『取ってきたぞ』
明宏は嬉しそうだった。飴自体よりも、おれが覚えていたことに感激していたようだった。もうひとつは自転車を漕いでいるときに落としたのか、どこを探しても見つからなかった。その飴と同じように、誰も触れられない場所に押し込めてしまった出来事は、他にもある。
例えば、明宏は結局、二十歳まで生きられなかったこととか。病床は静かだったが、最後に意識を取り戻した明宏は、うわごとのように飴のお礼を言っていて、それを聞いていたおれはふと、あの呪いだと気づいた。
自分だけでなく、明宏も呪われたのだと。そしてあの呪いが、明宏を殺した。
それから半年後、大学生活を終えて内定式も終わった辺り。地元をぶらついていて、ガード下で仕切りの柳瀬さんを見つけた。ホームレスになっていて、傍らに置いた一升瓶の中身で酔っぱらっていた。おれから伸びている影に気づいて、柳瀬さんは顔を上げた。今思い返してもあれは、おれが飴を二つ取ったあの少年だということに、気づいた目だった。なぜ自分がそのまま立ち去らなかったのかは、すぐに分からなかった。ふと我に返ったとき、後出しのように理由が追いかけてきて、ようやく明宏のことを思い出した。これは、明宏のためだったのだと。
その間に一升瓶で何発殴ったかは、もう覚えていない。
朝七時、希実はひと足お先に起きて、おれの朝ごはんを作ってくれている。美里がすでにコーンフレークを食べながらテレビを見ていて、おれは歯磨きを済ませてからキッチンに顔を出した。
「おはよー、パパ」
美里が頭をくるっと上に向けて、希実そっくりの笑顔で言った。おれはわざと上から覆いかぶさるように見下ろして、言った。
「おはよー」