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タカーシャ
タカーシャ
novelistID. 70952
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誰もいない中心へ——詩と哲学でたどる孤独の本質

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そもそも「わたし」というものが実体として存在していなかった。

五蘊は常に変化し、
自己という構造は
条件によって仮に現れていただけ。

ならば、死とは
「わたしが消える」のではなく、
「わたしでないものに戻る」という変化の一形態なのかもしれない。



死は断絶ではなく、「ほどける」こと

死を“断絶”ととらえると、そこには「終わり」の感覚がつきまとう。
しかし、「縁起(えんぎ)」の思想では、
生も死も連続する流れの一部であり、始まりも終わりもない。

わたしという束がほどけ、
土に、水に、風に、
あるいは他者の記憶にかたちを変えるだけ。

そこに「無」はない。
あるのは、「変容」だけだ。



孤独のなかに、やさしさはあるか

人は死に際して、
誰も同伴できない内的世界へと向かう。
その意味で、死はたしかに孤独である。

だが、それは「拒絶された孤独」ではない。
むしろ、最も静かな自己との対話の場ともいえる。

すべての音が消えたあとに残るのは、
「ありがとう」と「さようなら」が溶け合う、
不思議なやさしさかもしれない。

それは、宗教や思想が教えてくれる救いではなく、
沈黙の奥にある、深い受容の気配。

死とは、
自分という幻を脱ぎ捨てて、
世界そのものに還っていくプロセス。

それは、終わりではなく、
とても静かな、はじまりかもしれない。



第4章「死は出口ではなく、入り口である」



詩:『死の名を持つ扉』

死は終わりではない
ただ ひとつの扉

名を変えた存在が
そっと通り過ぎる

記憶も 愛も 憎しみも
すべて置いていく場所

だからこそ
死は空(くう)の入り口
わたしを失くして わたしになる

誰にも同伴されない
その最後のひとときが
いちばん ほんとうに
生きている証かもしれない



哲学エッセイ:「死と空性──終わりのない変容」

多くの宗教や哲学は「死」を終点として語る。だが仏教においては、死は単なる「変化」であり、決して絶対的な終わりではない。それは「無常(Anitya)」の顕現であり、「空(Śūnyatā)」の通過点である。

空とは「無」ではない。形あるものの背後に、固定的実体がないという洞察だ。だからこそ、死もまた「実体の喪失」ではなく、「関係性の変容」と言える。

ヒトは死ぬと、自我の枠を失う。個体としての意識は消えるかもしれないが、呼吸した空気、誰かに与えた言葉、触れた存在は、変容して世界に溶け込む。

ここに死の神秘がある。
それは「終わりの恐怖」ではなく、
「わたしから世界への再帰」である。

死に際し、人は本来の「無我」に触れる。
それは悲劇ではなく、あらゆる分離の終焉──
すべての扉がひとつになる時。

死は、出口ではない。
それは、「わたし」の境界が溶ける、入り口だ。





第5章「救いとは何か」



詩:『委ねるという技術』

がんじがらめの心を
そっと手放すとき
はじめて風が通る

握りしめたものは
いつか重荷になることを
知っているからこそ

委ねるということは
逃げることでも
あきらめることでもない

それは
自分を抱きしめて
世界にゆだねる
深い技術だ

孤独と向き合い
自我をほどき
空(くう)に溶けていくこと

そこにこそ
本当の救いがある



哲学エッセイ:「宗教と手放し:悟りへの道筋」

「救い」とは、多くの宗教や思想が追い求める究極の目的である。しかし、その意味は決して一様ではない。特に仏教においては、「救い」は自己の執着を手放し、「無我(むが)」の境地に至ることを指す。



執着と苦しみ

わたしたちが苦しむのは、変わらぬ自己や安定した存在を求め、そこに執着するからだ。愛情、地位、評価、所有物など、すべては無常の中で変わり続ける。

その変化を受け入れられないとき、苦しみは生まれる。



手放す勇気

「委ねる」とは、逃避でも弱さでもなく、むしろ最大の強さである。自我の枠を解放し、世界の流れに身を任せることで、心は自由になる。



悟りの境地

悟りとは、自己という「幻」から目覚めること。自己を固持することをやめ、すべてのものと一体になる感覚である。

そこでは、孤独も死も恐怖も溶け、代わりに深い静けさと慈悲が生まれる。




第6章「存在の輝き」



詩:『すべては光のように』

すべては
光のように
瞬きながら
流れていく

わたしもまた
その一瞬の光

つながりのなかで
孤独を抱きしめ
ほどけていく

恐れも悲しみも
やがて光になる

それは終わりではなく
つねに
はじまりの合図

わたしがわたしであるために
そしてわたしが
わたしでなくなるために



哲学エッセイ:「空(くう)に満ちる希望」

「空(くう)」とは、仏教における究極の真理のひとつであり、すべてのものが固定的な実体を持たず、相互依存のもとに存在していることを示す。



無常の中の輝き

すべては常に変化し続ける。
わたしという存在も、
周囲の世界も、
絶えず生まれ変わっている。

この変化を受け入れることが、
「空」の理解の第一歩である。



希望のかたち

「空」は虚無や絶望を意味しない。
むしろ、すべてが繋がりあい、
相互に支えあうことで成り立つ、
無限の可能性の場である。



いま、ここに生きる

わたしたちは不確かな存在のなかで、
瞬間ごとに生まれ変わる光だ。

その光を信じ、尊び、
ともに歩むことにこそ、
真の希望がある。




第7章:エネルギーという名の子どもたち



詩:『なぜ子どもは光るのか』

走る
笑う
転んで泣く
また走る

あの小さなからだは
なぜ疲れを知らないのか

眠ればすべてがリセットされ
朝がくればまた
世界をゼロからはじめる

欲も執着も
まだ色を持たず
明日も 昨日も
混ざらない

ただ
「いま」を全力で
燃やしている

ぼくらは忘れてしまったのか
思い出せるのか

あの 
意味もなく跳ねていた


あの 
呼ばれただけでうれしかった
名前

エネルギーは子どもにあるのではない
子どもが エネルギーなのだ



哲学エッセイ:「なぜ子どもはエネルギーに溢れているのか?」

子どもを見ると、私たちは無条件に「元気だなあ」と感じる。
しかしその“元気”とは、ただの体力ではない。存在そのものの強度であり、
あらゆる意味付けや常識よりも早く動き、感じ、泣き、笑う力だ。



〈生物学的観点〉

子どもは身体が作られている途中。
新しい細胞が絶えず生まれ、エネルギーの出入りが激しい。
そして睡眠の質が深く、回復力も早い。
だからこそ、朝が来るたびに“新品のように”世界に飛び込める。



〈心理的観点〉

子どもは「いまここ」に生きている。
過去を後悔したり、未来を憂いたりする脳の回路が、まだできあがっていない。
不安より好奇心。
恥より実験。
期待より発見。
この純粋な今に生きる力が、彼らを“エネルギーのかたまり”にする。



〈哲学的観点〉

世界を分けていない。
「自分と他人」「損と得」「正しさと間違い」――
そういったフィルターがかかる前の存在は、世界と直結している。