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タカーシャ
タカーシャ
novelistID. 70952
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誰もいない中心へ——詩と哲学でたどる孤独の本質

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第1章:わたしという幻



詩:『わたしという幻』

わたしは どこにいるのだろう
この手の中か
この胸の奥か
この世界の片隅か

誰かが わたしを呼ぶとき
わたしは そこに現れる
名前のように
声のように
記憶の影のように

わたしは わたしを信じていた
信じることで かろうじて
この輪郭を保っていた

だが
ふと立ち止まり 沈黙に耳をすませば
その輪郭さえ あやふやになる

わたしとは
誰かに見られ 話され 思い出されるたびに
形を変える 水のようなものだった

そしていま
その水が静かに蒸発していく気がする
わたしがいなくなっていく——
けれど 消えていくことすら
どこか ほっとしている

わたしという幻よ
ありがとう
あなたのおかげで 生きられた
あなたが去ったら
わたしは はじめて「無」になる

それは 終わりではない
それは きっと
はじまりのようなものなのだろう



哲学エッセイ:「空と無我:仏教哲学と自我の解体」

私たちはふだん、疑いなく「自分」という存在を信じて生きている。
「わたし」という感情、「わたし」という記憶、「わたし」という考え。
しかし、仏教、とくに中観(ちゅうがん)思想においては、この「わたし」は実体を持たないとされる。

「空(くう)」とは、ものごとが空っぽだという意味ではない。
すべての現象が、それ自身だけで存在しているわけではなく、条件(縁)によって成り立っているということを意味している。

たとえば、「机」は木や金具や設計という縁があって初めて「机」になる。
それ自体が「机」としての本質(自性)を持っているわけではない。

「わたし」も同じだ。

名前、性格、記憶、肉体、思考、感情——
それらが「たまたま」今この瞬間に集まり、「わたしらしきもの」を構成しているだけ。

つまり、**わたしという存在も、ひとつの仮構(かこう)**にすぎない。

仏教ではこれを「無我(むが)」と呼ぶ。
自我は、固体でも実体でもなく、絶えず変化する条件付きの現象なのだ。



「無い」からこそ、自由になれる

この視点を受け入れると、多くの悩みがゆるんでいく。
たとえば、「こうあるべき自分」「自分の過去」「自分への評価」——
それらは、すべて「実体のある自分」を前提とした苦しみである。

だが、もし「わたし」というものが本来存在しないならば、
守るべきものも、比べるべきものも、赦せないものも、実はない。

そのことに気づいたとき、わたしたちは
ほんとうの意味で「自由」になる。



「幻」であることは、悲劇ではない

「幻」であるからこそ、わたしは柔らかく、あたたかく、変わることができる。
そして誰かと、一瞬の奇跡のように交わることができる。

わたしという幻が、他者という幻にふれたとき、
そこにほんとうの「生」がある。

だから、わたしがやがて消えていくとしても、
それは「無」に帰るのではない。
むしろ、「空(くう)」という、すべてが生まれ直す場所へと
還っていくのだ。






第2章:所属するけれど孤独



詩:『すれ違いの群れ』

わたしは ここにいる
たしかに 誰かと
同じ場所にいて
同じ空気を吸い
同じ言葉を交わしている

けれど ふと
ひとことの裏に 
届かないものを感じる

わらっているけど
泣いているような
つながっているけど
ほどけているような

集団の中で 
なぜこんなにも
遠くにいるのだろう

ふりかえると
群れは
すれ違いの集積だった

手をつないだ気がしても
それは一瞬の
熱のようなもの
かげろうのような記憶

それでも
わたしは また
誰かの中にまぎれていく

孤独が怖いのではない
孤独を 誰にも見せられないことが
ほんとうは 一番 こわかった



哲学エッセイ:「関係性の束としての存在」

人は社会的動物である。
アリストテレスの言葉を借りるまでもなく、
人間は他者との関係によって自己を定義し、
またその関係のなかで「自分らしさ」を構築していく。

わたしたちは、生まれながらにして
家族、国籍、言語、文化、宗教、組織、役割といった
無数の「所属」によって包囲されている。

それらは、個を支えるように見える。
だが同時に、わたしをわたしから引き離していくこともある。



所属は安心と不自由の両義性を持つ

組織や集団に属することで、人は「居場所」を得る。
だがその一方で、「こうでなければならない自分」を
演じざるを得なくなる。

すると、関係の中にいるのに、
その関係が「ほんとうの自分」を見えなくさせる paradox に陥る。

そうして私たちは、
多数の中にいながら孤独を感じるようになる。



自己とは「関係性の束」にすぎない

仏教的に言えば、
「わたし」は一つの固定されたものではない。
むしろ、関係ごとに異なる顔を見せ、
その都度、「仮の自己」が立ち上がっては消えている。

つまり、「わたし」という存在は、
無数の他者との関係が束になった一時的な現象である。

これは「空(くう)」の実践的な姿でもある。
何ひとつとして独立した実体がない、ということは、
関係こそが存在の本質であるということでもあるのだ。



だから、孤独は異常ではない

所属していても孤独を感じるのは、
その関係が「仮」のものであると
どこかで直感しているからだ。

他者とのつながりが
本物であるためには、
まず**「孤独であること」そのものを隠さない**ことが必要だ。

本当のつながりは、
孤独を共有することから始まる。




第3章:死とは何か



詩:『最後のひとりごと』

誰にも聞かれない言葉を
胸の奥で つぶやいている

これは誰にも話さなかったこと
誰にも話せなかったこと

わたしは
ずっと 死をこわがっていた
それなのに
なぜか 死に向かって
静かに歩いている

誰かと生きてきたのに
最後は この一人分の
からっぽを連れて
沈んでいく

思い出は
たぶん わたしより先に
どこかに消えてゆく
なのに 今
あたまの中で やけに輝いている

「ありがとう」と「ごめんね」が
心の奥で 溶け合っていく
もはや どちらでもいいのかもしれない
ただ すべてが ほどけていくだけだ

最後のひとりごとは
風にのらなくていい
誰にも届かなくていい

それでも
この沈黙の中で
わたしは わたしを抱いている

怖さのなかに
かすかに やさしさがある

わたしは
ここで終わるのではなく
ここで
ほどけて 世界に還っていくのだ




哲学エッセイ:「死と孤独:終わりか、解放か」

死とはなにか。

人間にとって最も避けがたく、
なおかつ最も理解しがたい現象である。
誰もが経験するにもかかわらず、
誰もその体験を言葉にして伝えることはできない。

だからこそ、死は恐れの対象であり、また永遠の問いでもある。



死は「わたしの終わり」か?

死を恐れる理由のひとつに、
「自己の消滅」がある。

これまで積み重ねてきた経験や関係、記憶や功績が、
一瞬で無に帰すように感じられる。

だが仏教の視点から言えば、