大いなる談話
プラトンは不愉快そうな顔をしたが、何も反論しなかった。イマヌエルは手元のドイツパンを一口齧り、忠実に咀嚼をしている風だ。ルネが続ける。
「我々は“判断”によってこそ、感性さえ秩序づけられるのです。順序こそ理性の証。だから“彼女”の「1分間は60秒」という言葉が我々に正しく伝わったのです。もしも我々が“どう数えるか”の形式を持たなかったら、どうでしょう?」
黙らされていた事でプラトンは「では詩人の詩は、ただの意味不明の響きかね?」と放り込んだ。ルネはそれに首を振る。
「プラトン先生、それは“意味”を問う言葉ではありません。もしも詩人が優美に歌う時、我々はそこに形式による“意味”など必要としません。我々はそこに、美しさ、先見の明、人間を包む肯定を見出すのですから」
ルネはすっかり得意になっていたが、そこへソクラテスがまた問いを投げかけた。
「失礼、割って入って済まないね。でもこう聞かせてくれないか。君はそれがどうして“明晰判明”だと知っているのだい?それが“そうでない可能性”が一切ないと、どうして言えるのだね?いや、君の素晴らしい理論を是非とももっと強固にしたいのだ」
明らかにルネは嫌そうな顔をして見せたが、その後音に名高い「我思う、故に我あり」へと歩いて行った。
ソクラテスは静かにこう言う。
「“混濁”が悪いとは限らない。そこから“明晰判明”な理が生まれないとも限らないのではないかい?“混濁”も交えてこそ、新しい意味が発見されるのではないかい?」
その話を聞いていて、自分の中の理性で太刀打ちしていく気力を失くしていたイマヌエルは、目立たないよう宴席から光溢れる庭に出た。そこには、一輪の野薔薇が咲いている。
イマヌエルは、ヘラクレイトスの言う“ロゴス”と、デカルトの“明晰判明”、そしてプラトンの“イデア”が頭の中でぶつかり続けるのが鎮まっていくのを感じていた。
薔薇をただ見て心和ませるイマヌエルへ、柔らかな声が掛かる。
「イマヌエル、あなたは“時計の時間”には詳しいでしょう。ですが、“心の時間”に触れた事はありますか?」
それはアンリ・ベルクソンだった。イマヌエルは気づかなかったが、アンリはずっと薔薇の隣に座りこんでいたのだ。
イマヌエルは思考を整理するべくもなく、「時間は形式であって、感じる物ではない」と断言した。しかしアンリは柔和な笑みを崩さずイマヌエルにこう言う。
「“持続する時間”は、分割も構成も出来ません。それは連続した内的な流れであり、思考や記憶、感情のすべてが溶け合っています。貴方は今、薔薇に見とれていた。その時、貴方には薔薇がどう見えていましたか?私達は、生きるとは何かを、ただ測り、決定するのではなく、味わう事をしているのです。貴方が薔薇に一時の救いを求めたように」
イマヌエルが反論を考えている間で、後ろからルネが現れた。彼は何度も角度を変えてソクラテスに説明を終えた後のようで、少々熱している。だが、彼はアンリに対して声を荒げたりはしない。
「しかし、“曖昧な感覚”を真理の基準には出来ませんよ。“意味”とは、感覚と切り離せるからこそ論じられるのですから」
アンリはそれに深く二度頷き、しかし「それは分析に過ぎません。生そのものではないです」と尚も譲らなかった。
ルネとアンリが全く平行線となってしまったのを聞いていて、ずっとイマヌエルは俯いていた。彼の思考は一旦混迷を極めたが、彼はやがて立ち上がる。
「二人とも、私は“理性の条件”がなければ認識は生まれないと信じてきました。ですがアンリ、君の言う“持続”という物には、私が理性に求めた物とは違い、そして私は確かに、それに理性とは別の必要性を感じている。それは、“豊かさ”です…」
野薔薇を手に翳すように薔薇に手を近づけ、アンリは瞼を寝かせた。
「花が美しいのは、五分咲きから七分咲きに変わるからではありません。その一瞬一瞬が、私達の目に焼き付いて心を捕らえるからなのです。人々は、水の都へ旅をする。それは確かに“意味”に基づいた行動でしょう。ですが、人々の心に残り続けるのは、都で豊かに溢れる水の景色です」
イマヌエルはそれに思わず頷き、こう呟く。
「我々は“時”を先に論じていたが、“時”の方で我々を待っていたのかもしれない…」
皆それぞれに疲れており、ソクラテスも例外ではなかったが、アンリはそこに救いを差し出したりしなかった。不意にソクラテスはこう言う。
「我々が追い求めている物は、いつまでも我々より先を走り続けるのかね…?」
宴席の暖炉に立てかけた鏡に、ある者の姿が映った。彼は疲労を感じる全員をこう諭す。その声は、天界においても雲の上から聴こえるようだ。
「貴方方は、“意味”に形を与えようとしてくたびれてしまったようだ。だが、形を与えてしまったら、それは“意味”ではなく、“かすんだ映像”に過ぎないのでは?プラトンの言うイデアは少々違うようだが、イデアとは知性を超えた物だ。我々が分かるのは、それが“在る”という事だけなのだ」
ルネはそれに言い返そうとしていたが、ソクラテスの絶えない問いかけにより彼は足を止めかけている。
「では、我々は“意味”を理性で決定する事など、到底できやしないと言うのですか…?」
鏡はルネを責めもしないし、慰めもしない。彼の鏡は光り輝かない。
「それは橋の向こうに“在る”のだよ。沈黙は時に、最も多くを語るのだから」
その話を聴いていて思い出したのか、ルネの後ろで空を眺めていたソクラテスは、ある青年を思い浮かべた。
「彼は、“語れぬ物については沈黙しなければならない”と言っていたな…」
それはルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの事だろうと、全員が納得していた。