Clincher
それからしばらく話し込み、次の交通費精算で再会できることを祈りながら、私たちは駅で別れた。連絡先は交換しないけど、本当に話が合う。周りからすれば、不思議な人間関係に見えるだろう。佳純ちゃんと私の関係も同じだ。それは、佳純ちゃんと勝野先輩にも当てはまる。この二つは、コピーしたように共通点を含んでいて、しかもそれらは全て佳純ちゃんが用意したものだ。
何が言いたいのか。勝野先輩はそう言ったけど、本当に『言いたい』のだろうか。何かを『言って欲しい』のかもしれない。先生というのは、そういうものだ。生徒から答えを引き出すのが仕事なのだから。だとしたら、佳純ちゃんが私たちから何かの答えを引き出そうとしていると考える方が自然だ。
私は最寄り駅に併設されたスーパーで夜食を買って、アパートの三〇二号室に帰った。下宿先、我が家、ホーム。色んな呼び方があるけど、盗聴器が見つかったことで、部屋はなんとなくざらついている。引っ越す手続きは住んでいるけど、実際に動けるのはもうちょっと先の話だ。鞄から取り出した盗聴器センサーを手に持ってスパイ映画のように歩き回っていても、頭では冗談にできるのに体が笑いごとじゃないと言って、止まってくれない。この盗聴器センサーは、怪しい場所に向けてボタンを押すと、反応した場合にランプが光る構造になっている。だからセンサーに反応してもらうには、こっちから動く必要がある。
日課のように狭い部屋の中を歩き回った後、お風呂を済ませて夜食タイムに入り、私は鞄の中身を取り出した。そして、塚田理子と書かれた用紙をノートと並べて、転記するところから始めた。佳純ちゃんが私たちに何かを教えているなら、こっちだって本気を出す。明後日の授業までに、答えまではいかなくても、少しは光る部分を身につけておきたい。
まずは、塚田理子と宇土里美を並べて書き、しばらく眺めてみた。共通点は相変わらず、名前だということだけで何も浮かんでこない。
次は、私が『割り切れない』と指摘したときの、普通の反応。勝野先輩が『余りがないよ』と指摘すると、嬉しそうにしていたらしい。私はそれを書き留めて、名前と見比べた。あまり関連はなさそうだ。小さく息をつくと、私は宇土里美の上には井佐尚子と書き、塚田理子の上に勝野仁美と書いた。そして、自分の名前の横に『サーナ』と書き添え、勝野先輩の方には『ゲッツー』と足した。共通していない点はひとつ。勝野先輩だけが、みかんの木に近づいて怒られた。
最後に、二人の共通点は『息が凝っている』ということ。
事実を並べておけば、明後日の授業で話したときに何かが見えるかもしれない。私は頭のリソースを使い果たして、ベッドの上に寝転がった。こんなに何かを真剣に考えるなんて、受験生に戻ったみたいだ。
駅から室田家までの道は、徒歩五分。今日は佳純ちゃんの『予習』が鞄に入っているから、何となく体が重い。昨日は一日、佳純ちゃんのことが頭の片隅に残っていた。今は数分の時間調整で駅をうろついているけど、本音ではこの時間すらすぐに過ぎ去って欲しいし、早く授業に入りたい。どういうわけか、今すぐ佳純ちゃんと対面して話さないと、頭の中にかかった霧は二度と晴れない気がしている。
立ち止まって駅のモニターを見上げると、ちょうどコマーシャルに切り替わったところだった。平日の夕方だからか、サラリーマンに向けた内容のものが選ばれている。肩が赤く光っている俳優が登場して、痛そうに歪んだ顔をこちらへ向けた。
『肩、首の凝り、つらいですよね』
はっ、こちとら息だぜ。私が乾いた笑いを漏らしたとき、湿布を貼った俳優の肩が青い光を放ち、嘘のような笑顔でコマーシャルが終わった。痛みが赤で、その解消が青。逆にしたら、変な感じなんだろう。
言葉には、明確な運命がある。
佳純ちゃんは、家庭教師に必ず同じことを言っている。だとしたら、それはコミュニケーションじゃない。だから必ず、正しい反応があるはずだ。勝野先輩はそれに失敗したから、佳純ちゃんは諦めたのだろう。それこそ、先生が生徒に見切りをつけるように。聡明なゲッツ―パイセンにも、限界があったということだ。それなのに、私のような量産型女子大生が解決できるような話なのだろうか。
昨日調べたところ、ゲッツ―というのは野球用語。守備が二人の走者からアウトを取ること、とあった。もう一度その画面をスマートフォンに出したとき、ふと、頭に浮かんでいた勝野先輩のフルネームと結びついた。
勝野仁美。
下の名前である『仁美』の中に、数字の二がある。それがツーだとしたら、前半は? おそらく、勝の部首である月だ。月と二で、ゲッツー。法則を見つけた。井佐尚子が真ん中の二文字を取って『サーナ』なのと同じで、理屈がある。じっとしている時間がもったいなくなって、私は歩き出した。商店街を抜けて、マンションや建ち並ぶ一戸建てを通り過ぎていき、半分が死んだように暗い室田家に辿り着いた。インターホンを押すと、いつも通り物静かな母親が出てきて、玄関の後ろで佳純ちゃんが待っていた。
「こんばんは、お邪魔します」
私が頭を下げると、いつも通り母親は目を伏せて一礼した。
「こんばんは、今日もよろしくお願いします」
「先生、こんばんは」
佳純ちゃんが言い、私は挨拶を返すと、二階へ駆ける背中を追うように階段を上った。トントンと鳴るリズミカルな足音はいつも通りで、部屋に通された私は国語の問題集を取り出した。
「佳純ちゃん、今日は国語からだぜ」
「苦手」
佳純ちゃんは苦い薬を飲んだように顔をしかめると、それでも待ちきれないように丸テーブルを挟んだ向かいに座った。私は静かに腰を下ろすと、小説の一節が設問になったページを開いた。
「作者の気持ちを答える系。じっくりいこ」
「知らないもん、そんなの」
佳純ちゃんが困ったように眉を曲げるのを見て、私は思わず笑った。
「なりきったら、面白い答えがでるかもよ」
佳純ちゃんは挑戦を受け入れるようにしばらく考え込んだ後、いつもの斜めの体勢を取った。
「分かった、なりきる」
問題に取り組む姿は、いつも通り。真剣で、周りのことは見えなくなっている。でも、佳純ちゃんが何かを伝えようとしている以上、二人目である私は勝野先輩を超えてみせたい。
私はノートを取り出した。書いてあるのは、佳純ちゃんについての設問だ。見られてはいけない。少なくとも、佳純ちゃんが勝野先輩にだけ教えていた『塚田理子』という名前は、私が知っていることを悟られてはまずい。こっちが先生なのに、生徒相手にカンニングをしているような気分だ。
なりきったら、答えが出る。佳純ちゃんに言い聞かせたようで、これは私にも当てはまるのかもしれない。相手の立場になれば、何かが見えるかも。そう思ったとき、佳純ちゃんが不意にパッと顔を上げて、私はノートを閉じながら鞄に押し込んだ。
「できた?」
「ううん、まだだけど」
「そっか、頑張れー」