Clincher
「まだ、何とも言えないです。慕ってくれている感じはします」
私と勝野先輩が話をしている真横で、指サックを装着した関さんの指が凄まじいスピードで紙を捕え、出納箱から現金を出した関さんは、封筒にばさばさと押し込んで私に手渡した。それを再び手の上に出して数え直してから領収欄にサインを書いて、新しい教材を受け取り、鞄が地蔵を背負っているように重くなったところで、勝野先輩が言った。
「時間あるなら、ご飯どう?」
駅前のレストランに入り、勝野先輩はアイコスを命の煙みたいに吸い込んで、やってきた店員さんの顔を見ると、迷うことなく生ビールを注文した。私はメニューを見つめたまま、笑った。
「不良先生ですね。あ、私はシャンディガフをお願いします」
おつまみをいくつか注文して、店員さんが戻っていったとき、勝野先輩はアイコスを手に持ったまま言った。
「室田さんのこと、関さんの前で聞いてごめん。本音なんか、あの人の前で言えないよね」
勝野先輩は気遣いができる。私とは比べ物にならないぐらいの難関大に現役で入って、それでもエリートぶっている感じは全くない。こんなできた人なのに、佳純ちゃんとは一体何が合わなかったんだろう。
「今のところ、順調なんですよ」
「あだ名は何? つけられたでしょ?」
サーナという愛称。あれは、私だけが特別扱いされていたわけではなかったらしい。ちょっと悔しい気がして、私は運ばれてきたばかりのシャンディガフをひと口飲んでから、言った。
「井佐尚子だから、サーナです」
「だからって、何。普通は分かんないでしょ。真ん中の二文字ってことか」
勝野先輩がそのまま話題を供養し始めていることに気づいて、私は少し前に身を乗り出した。
「勝野先輩は? 勝野仁美ですよね。さあ、答えをどうぞ」
「ゲッツ―」
勝野先輩は小さな声で言うと、ビールをぐいっとあおった。私は聞き間違いかと思って、復唱した。
「ゲッツ―?」
「うん、ゲッツ―。意味分かんないよね。断る理由もないし、そう呼んでもらってたけどさ」
勝野先輩は、店員さんが運んできたおつまみの焼き鳥セットを受け取ると、テーブルの真ん中に置きながら言った。私は両手で四角のフレームを作ると、勝野先輩の顔をその中に捉えた。
「私も、ゲッツーパイセンって呼んでいいですか?」
「絶対ダメ。室田さんは確か、割り算が苦手だよね」
勝野先輩の言葉に、私は先生の顔を作って深くうなずいた。
「そうですね。割り切れないのに、余りを書き忘れちゃうんです」
「私のときもそうだったな。余りがないよーって言うと、なんか嬉しそうなんだよね。間違えてるのに」
ついさっきは、嬉しそうだったかな。私は確か『割り切れない』って言っただけだった。勝野先輩のように『余りがない』って言っていたら、佳純ちゃんは嬉しそうにしたのだろうか。
「まあ、謎めいた子だ」
勝野先輩が言い、私は対抗するように胸を張った。
「私は、佳純ちゃんの友達の名前を、こっそり教えてもらいましたけどね」
口に出すときに感じる、魚の骨のような引っ掛かり。私は明確に、同じクラスに友達がいるかと訊いたはずだ。でも、佳純ちゃんの答えた『宇土里美』は同じクラスにいない。返事を待っていると、ビールをひと口飲んだ勝野先輩は、同じように胸を張った。
「そんなの、あたしだって」
小学生がどっちに懐いているかを競うのも馬鹿らしい気がするけど、私は挑戦を受け入れるように口を尖らせて待った。勝野先輩はもったいぶった仕草を作りながら言った。
「あたしの問題集に、名前を書いたんだよね。言うのは恥ずかしかったのかな」
私のときと、全く同じ行動パターン。冷房が効きすぎている気がして、私は足を組んだ。勝野先輩はしばらく考えた後、オチのように間を空けてから、続けた。
「つかだりこ」
誰? 宇土里美以外に、もうひとりいる。私がぽかんとしていると、勝野先輩はその中身が読み取れたようで、自分以外の全員を庇うように慈悲深い表情で言った。
「実在しない友達ってのは、あるあるかもね。室田さん、娯楽がないじゃん。ちな、尚ちゃんのときは、なんて名前だった?」
「宇土里美です」
「共通点は何だろ? ないな」
コンマ五秒で諦めた勝野先輩は、ビールを飲み干した。私も宙を見上げて考えるふりをしたけど、しばらくの間、頭の中で二つの女性名が泳いだだけだった。芸能人でも思い当たらないし、誰なんだろう。
「なんだか、不思議と興味が惹かれるというか……、独特ですよね」
私が言うと、勝野先輩は何度もうなずき、バッグからノートを取り出してペンの蓋を口で引き抜き、くわえたまま筆を走らせた。そして、漢字で『塚田理子』と書いたページを丁寧にルーズリーフから解放すると、私に差し出した。私が呆気に取られていると、ペンに蓋を被せてから、勝野先輩は言った。
「漢字はこれ。あげるから、尚ちゃん頑張りたまえよ。なぞなぞタイムだ。少女の心理を紐解け、配点五点」
「えー、謎かけは苦手なんですが。しかも配点五点って、小問ですよね?」
あれこれ文句を言いながらも、私は名前が書かれた用紙を受け取った。少女の心理って言っても、国語のように本文があるわけじゃない。だから答えはゼロから生み出さなければならない。鞄に用紙を仕舞い込み、私は言った。
「室田さん家の向かいの方と話したこと、あります?」
「ないよ、めっちゃガン飛ばして避けてた。駅前にスーパーあるじゃん。一回目の授業の帰りに寄ったんだけど、あそこであの人が噂話ばっかしてるの、聞いちゃってさ」
「そうだったんですか」
私はそう言って、首をすくめた。並んで歩いたことにすら、罪悪感が生まれそうだ。ビールをお代わりすると、勝野先輩は言った。
「聞いちゃったんだよね。室田さんのお母さんは、下の子に全てを賭けてるって。そんな失礼な話、でかい声でしちゃったらダメだよなあ」
姉が家出した以上、妹が全て。再婚でもしない限りは、新たに子供を作ることはできない。全部、西田さんからの入れ知恵をベースに想像しているだけだが、あの教育ママぶりには鬼気迫るものがあるし、そんなものなのかもしれない。会話のペースが落ちかけてきたとき、勝野先輩が瞬きを繰り返すと、口角を上げながら言った。
「変なエピソード、もう一個あったよ。あたしが凝ってそうなところ。なんて言われたと思う?」
「息」
私が即答すると、空気が遠慮なく凍った。勝野先輩はビールのお代わりに手を付けることなく、喉を鳴らした。
「どうして分かったの? もしかして、同じことを言われた?」
私はうなずいた。佳純ちゃんは、同じことを違う先生に言い続けている。まるで、私たちが生徒に授業をするみたいに。勝野先輩は伸びをして壁にかかった絵画に触れると、元の体勢に戻った。
「何が言いたいんだろ」
「二年に上がっても教授に言われますけどね、それ」
私は、勝野先輩の言葉を引き取ることなく、大学生活の話に無理やり捻じ曲げた。勝野先輩は緊張から解放されたような柔らかな笑顔になると、ビールをようやくひと口飲んだ。