複数トリックの組み合わせ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年5月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。
プロローグ
「飽きっぽい人間」
というのは結構いるもので、
「人間、辛抱が足りない」
ということから、飽きっぽいということになるのだろうか?
確かに、すぐに飽きてしまうということになると、その心には、辛抱が足りないと言われても仕方がないのだろうが、ある意味、生理現象というものを考えると、無理もないということもあるのではないだろうか?
「トイレに行くのを一度我慢してしまうと、次のインターバルはあっという間にやってくる」
というものだ。
「我慢ができない」
ということと、
「飽きっぽい」
ということは、基本的には違うことではあるが、
「辛抱が足りない」
ということと、
「我慢ができない」
ということとが、
「同じレベルのことである」
と考えた場合、その反対を考えると、普通であれば、
「似たような意味の発想になる」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「一つの言葉に、一長一短がある」
という考え方ができるのではないかと思えるのだ。
というのは、
「飽きっぽい」
という言葉を考えた時、普通に考えると、
「あまりいい傾向ではない」
と言われることであろう。
それをなぜかと聞かれた時、
「辛抱が足りないからだ」
ということになるのは当たり前のことであり、特に、昭和を知っている人からすれば、
「辛抱が足りない」
ということは、
「持続できない」
ということへの裏返しに見えるからだ。
しかし、
「裏返し」
とは言っても、さらにその裏返しというものが、また、
「辛抱が足りない」
というところに戻ってくるのかどうか、その人の感じ方というものによるのではないだろうか?
確かに、
「持続できない」
ということを、裏返しに考えると、ここで、
「飽きっぽい」
と感じる人も多いことだろう。
つまりは、
「裏返しのさらに裏返しで戻ってきた」
ということになる。
それも、間違った発想ではないが、その間に、何か一つが噛んでくることによって、同じことではあるが、そもそものフィールドの広さが変わってくるということになるのだろう。
実際に、それは、そもそも
「物事には、最初から裏表がある」
ということから起こることであろう。
だから、
「堂々巡り」
であったり、
「いたちごっこ」
というような言葉が生まれるわけで、その言葉は、意味合いとしては似ているが、実際に突き詰めてみると、まったく違うことである場合が多い。それだけ、
「曖昧な言葉だ」
といってもいいのではないだろうか?
裏表があるということで、
「裏を返せば」
という言葉をよく使われるが、それは、基本的に、
「表に戻ってくる」
ということからきているのだろうか?
裏表というのは、
「人の性格」
というものであったり、
「世の中の仕組み」
ということを鑑みても、
「必ずあるものだ」
といってもいいだろう。
ただ、基本的に、
「裏表がある」
というのは、人の性格ということを考えると、あまりいい意味には使われない。
というのは、
「二重人格」
であったり、
「躁鬱症」
などという、性格的なもので、実際には、そういうタイプの人は、あまりいないというのが、よく言われることである。
それだけ、
「裏表」
というものが、少なくとも人の性格の中にあり、それが、表に出てくるというのは、いいことではないから、表に出したくないということへの現れというものではないだろうか?
これは人の性格だけに限ったことではなく、
「世の中の仕組み」
というものに関しても、その状況は顕著に表れているといってもいいのではないだろうか?
そもそも、世の中の仕組みというのは、
「人が集まって団体になることで、性格が違っていたり、考え方の違う人間をまとめて、秩序であったり、治安を守って、平和な集団にする」
ということから、決められた、
「規範」
であったり、
「法律」
というものだ。
これが、
「宗教団体」
というものになると、
「戒律」
ということになるのだろう。
宗教団体というのは、その戒律を、
「命がけで守らないといけない」
ということであった。
一般社会の法律であれば、
「それを守らないと、罰則がある」
ということが歴然となっているので、逆にいえば、
「罰則さえ逃れられれば、何をしてもかまわない」
という考え方からなのか、実際に切羽詰まってしまうと、それが犯罪だということが分かったとしても、やってしまうということになるであろう。
しかし、戒律というのは、
「罰則」
というものがあり、逆らうと、閥が与えられるというのは同じなのだが、その罰を与えるというのが、
「自分たちが信じている神様」
ということになるのだから、話は違ってくる。
一般社会の法律というものは、基本的な、倫理であったり、モラルから考えられたことであり、
「戒律に近いもの」
といってもいいだろう。
しかし、
「しょせんは人間が作ったもの」
ということになるのだ。
人間社会において、
「神」
というものは存在しない。
確かに、神仏をお祈りするという風習はあるが、それは、人間社会の法律を守るということからすれば、
「別次元のもの」
といってもいいだろう。
今の人間社会で、
「法律だけを守っていく」
ということで、皆が皆幸せに過ごしていける世の中であれば、極端な話、
「宗教団体」
というものが出てくるということはないだろう。
というのも、
「人間には、欲というものがあり、それは、果てしないものだ」
ということである。
縄文時代のように、
「一つの土地に定住するわけではなく、獲物を求めての狩猟の時代であれば、皆で協力しないと食っていけない」
ということで、争いというものは、ほとんどなかっただろう。
しかし、弥生時代に入り、
プロローグ
「飽きっぽい人間」
というのは結構いるもので、
「人間、辛抱が足りない」
ということから、飽きっぽいということになるのだろうか?
確かに、すぐに飽きてしまうということになると、その心には、辛抱が足りないと言われても仕方がないのだろうが、ある意味、生理現象というものを考えると、無理もないということもあるのではないだろうか?
「トイレに行くのを一度我慢してしまうと、次のインターバルはあっという間にやってくる」
というものだ。
「我慢ができない」
ということと、
「飽きっぽい」
ということは、基本的には違うことではあるが、
「辛抱が足りない」
ということと、
「我慢ができない」
ということとが、
「同じレベルのことである」
と考えた場合、その反対を考えると、普通であれば、
「似たような意味の発想になる」
ということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「一つの言葉に、一長一短がある」
という考え方ができるのではないかと思えるのだ。
というのは、
「飽きっぽい」
という言葉を考えた時、普通に考えると、
「あまりいい傾向ではない」
と言われることであろう。
それをなぜかと聞かれた時、
「辛抱が足りないからだ」
ということになるのは当たり前のことであり、特に、昭和を知っている人からすれば、
「辛抱が足りない」
ということは、
「持続できない」
ということへの裏返しに見えるからだ。
しかし、
「裏返し」
とは言っても、さらにその裏返しというものが、また、
「辛抱が足りない」
というところに戻ってくるのかどうか、その人の感じ方というものによるのではないだろうか?
確かに、
「持続できない」
ということを、裏返しに考えると、ここで、
「飽きっぽい」
と感じる人も多いことだろう。
つまりは、
「裏返しのさらに裏返しで戻ってきた」
ということになる。
それも、間違った発想ではないが、その間に、何か一つが噛んでくることによって、同じことではあるが、そもそものフィールドの広さが変わってくるということになるのだろう。
実際に、それは、そもそも
「物事には、最初から裏表がある」
ということから起こることであろう。
だから、
「堂々巡り」
であったり、
「いたちごっこ」
というような言葉が生まれるわけで、その言葉は、意味合いとしては似ているが、実際に突き詰めてみると、まったく違うことである場合が多い。それだけ、
「曖昧な言葉だ」
といってもいいのではないだろうか?
裏表があるということで、
「裏を返せば」
という言葉をよく使われるが、それは、基本的に、
「表に戻ってくる」
ということからきているのだろうか?
裏表というのは、
「人の性格」
というものであったり、
「世の中の仕組み」
ということを鑑みても、
「必ずあるものだ」
といってもいいだろう。
ただ、基本的に、
「裏表がある」
というのは、人の性格ということを考えると、あまりいい意味には使われない。
というのは、
「二重人格」
であったり、
「躁鬱症」
などという、性格的なもので、実際には、そういうタイプの人は、あまりいないというのが、よく言われることである。
それだけ、
「裏表」
というものが、少なくとも人の性格の中にあり、それが、表に出てくるというのは、いいことではないから、表に出したくないということへの現れというものではないだろうか?
これは人の性格だけに限ったことではなく、
「世の中の仕組み」
というものに関しても、その状況は顕著に表れているといってもいいのではないだろうか?
そもそも、世の中の仕組みというのは、
「人が集まって団体になることで、性格が違っていたり、考え方の違う人間をまとめて、秩序であったり、治安を守って、平和な集団にする」
ということから、決められた、
「規範」
であったり、
「法律」
というものだ。
これが、
「宗教団体」
というものになると、
「戒律」
ということになるのだろう。
宗教団体というのは、その戒律を、
「命がけで守らないといけない」
ということであった。
一般社会の法律であれば、
「それを守らないと、罰則がある」
ということが歴然となっているので、逆にいえば、
「罰則さえ逃れられれば、何をしてもかまわない」
という考え方からなのか、実際に切羽詰まってしまうと、それが犯罪だということが分かったとしても、やってしまうということになるであろう。
しかし、戒律というのは、
「罰則」
というものがあり、逆らうと、閥が与えられるというのは同じなのだが、その罰を与えるというのが、
「自分たちが信じている神様」
ということになるのだから、話は違ってくる。
一般社会の法律というものは、基本的な、倫理であったり、モラルから考えられたことであり、
「戒律に近いもの」
といってもいいだろう。
しかし、
「しょせんは人間が作ったもの」
ということになるのだ。
人間社会において、
「神」
というものは存在しない。
確かに、神仏をお祈りするという風習はあるが、それは、人間社会の法律を守るということからすれば、
「別次元のもの」
といってもいいだろう。
今の人間社会で、
「法律だけを守っていく」
ということで、皆が皆幸せに過ごしていける世の中であれば、極端な話、
「宗教団体」
というものが出てくるということはないだろう。
というのも、
「人間には、欲というものがあり、それは、果てしないものだ」
ということである。
縄文時代のように、
「一つの土地に定住するわけではなく、獲物を求めての狩猟の時代であれば、皆で協力しないと食っていけない」
ということで、争いというものは、ほとんどなかっただろう。
しかし、弥生時代に入り、
作品名:複数トリックの組み合わせ 作家名:森本晃次