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傀儡草紙

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10.療法 ―藁人形―



 人形の役割の一つに、人を癒やすというものがある。

 例えば、認知症の方に向けて用いられる人形。話せるぬいぐるみやペット型のロボットなどは、認知機能の維持や改善を促したり、孤独感を軽減させたりといった効果があるそうだ。これらの人形は人々に愛されながら、彼らを立派に癒やしていることがよくわかる。

 日々のストレスを軽減する人形というのも存在する。ゴムやシリコンなどでできているおどけた人形たちは、どんな暴力的な仕打ちを受けても、気が付くと元の形に戻っている。危害を加えられる人形にとってはつらいかもしれないが、これも立派な役割であり、彼らによって救われている人々も多いことだろう。

 癒すという役割はストレスの軽減だけに留まらない。ぬいぐるみなどは抱きかかえてあのもふもふとした感触を味わうだけでも、安心感を与え恐怖を緩和させる。初めてパパやママと離れて一人で眠りに就いたあの夜や、暴風雨や雷の音がけたたましく鳴り響く中で眠らなければならなかったあの夜にお世話になった方々も多いのではないだろうか。

 編み物の技術さえあれば手軽に創れるらしいあみぐるみ。彼らもお手製の温かさで多くの人々を癒やしている。彼らはキーホルダーとしてカバンなどにぶら下がって寄り添ってくれたり、つらいことがあった日に家の玄関を開けたとき、靴箱の上などでいつもの表情で暖かく出迎えてくれる。私たちの生活の中に溶け込んでいる癒しグッズだといっても過言ではないだろう。

 これらだけでも例としては十分だとは思うが、さらに駄目押しをしておきたい。そもそも人形はなぜ創られたのか。ひいては人形という物体そのものの存在意義についてだ。

 われわれ人形は、原初、宗教的な祭事や儀式などで用いるために創られたと言われている。要するに、五穀豊穣や無病息災といった人々の幸福を祈願するために生まれたということになる。それはやや迂遠な言い方をすれば、やはり人を癒やすのが目的だったのではないだろうか。

 要するに、こういった宗教的なイベントは人々を安心させるために行われるのだと思う。具体的に言えば、私たちは神であるあなたを信仰していますよ、というメッセージを自身にも神にも送信するものだったり、信者内の結束を強め、われわれは仲間だよねという意思表明をしたり、殉死は怖いから別のもので代用しようねという意図だったり、連綿と続いている儀式を途切れさせたら恐ろしいから、念のためやっておこうかという意思だったり。神を介在させてはいるものの、動機の行き着く先は人々の心の安寧であり、そこで重用されたのが人形というものなのだ。

 随分と長く理屈を重ねてきたが、人を癒やすことはわれわれ人形に与えられた役割の一つではなく、むしろ主目的である、そう言っていいかと思う。

 つまり、癒やされたい人間と癒やしたい人形が二人三脚で歩んできたのが歴史ということになるのだが、中にはそういった役割を与えられていない、いや、与えられていないかのように見える人形も存在する。

 その人形たちは賛否両論はあるものの、立派にある種の人々を安心させ、癒している。彼らが登場する場面もある意味では宗教的と言えるだろう。
 だが、彼らはここまでに挙げられたような人類を癒すための人形とは一線を画し、その評判はあまり芳しくはない。いや、どちらかと言えば人々に忌み嫌われ、遠ざけられていると感じることもある。

 これは、人形差別ではないだろうか。

 もちろん創られた全ての人形が有用だという気はない。人形がどうしても怖いという人もいるだろう。だが、私もそうであるその人形は、見た目はそれほど怖いものではない。恐ろしい顔つきでもなく、それどころか非常に簡素で、人を模したものとギリギリ思える程度だ。そんな見目でも役に立っているという自負はあるのだが、それでも人は私たちをあまり好いてはくれないようだ。

 私はこの場を借りて、私たちの名誉を回復させたい。あなたがたに私たちの魅力を知ってもらたい。そしてゆくゆくは私たちを用いた心理療法を開発してほしい。それくらいのポテンシャルが私たちにはあるはずだし、私たちも忙しくなる覚悟は十分にできている。


 深夜、クライアントはセラピストの指示に従い、むくりと布団から起き上がる。そして衣装に着替えて、私たちや関連する道具を持って外に出る。

 目的地は近所の神社。真っ白な衣服で、頭にろうそくを刺して、クライアントである彼ら彼女らは石段を駆け上がる。
 やがてたどり着く神社の境内。その周辺の木に彼らは五寸釘で私たちを打ち付ける。万感の力と負の願いを込め、殺したいほど憎い相手を思い浮かべて。これを何日も何日も、満願の日まで繰り返す。

 科学的な証明はされていないが、このセラピーの効果は絶大だろう。

 まずスッキリする。嫌いな相手に見立てて人形に釘を打ち付ける。これにカタルシスを感じないのはおかしい。この時点ですでにクライアントをかなりの部分で癒やしていると言っても過言ではないはずだ。
 それに、定期的に運動を行えるという点も魅力的だ。神社まで行って釘を打って帰ってくる。石段の登り降りを考慮すれば、これだけでも日常の運動として十二分の成果なのに、この行動は人に見られてはいけないのだ。必然的にできるだけ手早く行わなければという心理が生まれるだろう。そのような気持ちで丑の刻参りに取り組めば、自然と運動能力もついてくるはず。また、運動自体がストレス軽減の効果を持っているし、特定の精神疾患の予防にもつながるという点でも、クライアントが享受するメリットは大きい。

 もちろん、長所ばかりではない。最も大きな欠点は夜型になってしまうことだろう。丑の刻は深夜1時から3時。この時間に眠れないのは大きなデメリットだ。だが、これもポジティブに考えれば、早起きと捉えることができるかもしれない。新聞の配達や漁師、清掃員など早朝から仕事を行う職に就けば、「出勤前に五寸釘打つのが日課なんですよ」なんてことを自己紹介で言えるようになるだろう。

 ここまで来てしまえば、大抵のクライアントは呪い殺したい相手のことなど忘れてしまう。人は忘却という便利な機能を持っている。本懐を遂げずとも、幸せな生活が手に入れば、そのクライアントは笑顔で残りの人生を歩んでいけるに違いない。
 もし仮に呪っている相手に何らかの不幸が起きても、それはそれで構わない。クライアントは藁人形に釘を打つことで嫌いな相手を傷つけたという立派な成功体験を手に入れられる。それをこの苦しい社会を生きる糧として、今後も頑張っていけばいいだけの話だ。

 というわけで、藁人形セラピー。われながら良い療法ではないかと思う。これをぜひあなたがた人類に効果を証明してもらって、一つの療法として正式に確立していただきたい。そうすることでわれわれ藁人形の名誉は回復されるだろうし、魅力も伝わっていくのだから。


作品名:傀儡草紙 作家名:六色塔