傀儡草紙
09.夢幻 ―マネキン―
意識が混濁する。あのときからずっと意識は霧の中だ。
話は大学生の頃までさかのぼる。当時、俺は極度の金欠ですっかり困り果てていた。家賃も滞納。日々食事にも事欠く、そんな状況の俺は、大学の先輩のEという男に相談をしたのだった。
「じゃあ、あそこの工場に来いよ。深夜1時から4時間で2万の取っ払いだから、割はいいぞ」
恐らく今でもこれは破格の待遇だろう。俺はこの話に飛びついた。当時は闇バイトもなかったし、関わりが薄いとはいえ大学の先輩の紹介だ。しかも家からも近い。大変かもしれないが、今はとにかくカネ。そう思い、翌日、E先輩とともにその工場を訪れたのだった。
その工場はリサイクルショップを併設していた。店舗の前を通ると、そこにはかつて愛された後、売られたり捨てられたりした品々が、再び持ち主を求めて精一杯の輝きを放っている。
俺と先輩は工場を訪問し、そこで笑みを絶やさない男と出会った。男は先輩と面識があるらしく会話を交わした後、俺に名刺を渡してきた。それで俺は、この男がここの専務だということを理解した。
そして、部屋で30分ほど面接のような、世間話のような奇妙な時間を過ごした。奇妙な、と記したのは、いくらバイトとはいえ面接なら俺1人でしそうなものだが、先輩も隣に同席し、俺のポジティブな面を言い添えてくれるというものだった。普段、それほど接点のない中で数少ないエピソードで持ち上げてくれるさまは、とにかくここで働いてほしいという強い意志を感じた。
そんな先輩の後押しもあり、明日から早速来てほしいという言葉をもらった俺はホッと胸をなで下ろす。家に着いてから、仕事内容を聞き忘れたことを後悔したが、どうせ明日になればわかると思い、祝杯で洗い流してしまった。
翌日の深夜。作業服姿の俺の元に一人の男がやってくる。その男は無愛想に河瀬と名乗り、ついてこいと言ってから歩き出す。つき従った後にたどり着いたのは、工場内の隅の一室、無機質で暗い部屋だった。河瀬は床に無造作に置かれている物体を差し、俺に指示をした。
「このマネキン、トルソとして再利用するから、手足と首を切断して。時間が余ったら、切り口の研磨も頼む」
それだけ言って川瀬は出ていった。残されたのは、俺とマネキン、それと、切断や研磨に用いる工具だけ。
俺はぶっきらぼうな指示や不親切さに頭を抱えたが、これもカネのためだ。職務遂行のために丸ノコを手に取り、右足の付け根、太もものあたりに刃を押し当てた。
作業は遅々として進まなかった。マネキンなんてもろいものだと思っていたが、これは丈夫な素材でできているらしくなかなか刃が入っていかない。
それに、部屋が暗い上に静か過ぎる。深夜なので静かなのは当然だが、この部屋で人にそっくりのマネキンを切断するという状況は、嫌でも罪悪感や恐怖が心に立ち上ってくる。
3時間ほどでどうにか四肢を切り離す。後は首だけ。俺は感情を振り捨て、勢い任せに刃を喉元に当てる。
なるべく目を合わせないように刃を入れていく、たかがマネキン、本当の目なんてないのに。飛び散るのは切断時に生まれる白い粉だけだが、暗さと静けさと恐ろしさで、赤い液体が噴出しているような幻覚が見える。それに耐えつつ刃を進めると、やがて首はころりと転がり、偶然にも俺を見つめる形で動きを止めた。
どうにか指示は遂行できたが、研磨をする余裕はない。疲れ果てて一休みをしていると、扉が開いて河瀬が入ってくる。彼は俺に茶封筒を乱暴に手渡し「お疲れ」とぼそっと言った。
急いで着替えを済まし、逃げるように俺は工場を後にした。
初日から不気味な作業をさせられた俺は、翌日も気が重い中、工場に向かった。バックレるという考えも頭に浮かんだが、先輩の顔はつぶせない。それに、まだカネへの執着が残っていたし、今日も同じ作業とは限らないはず。無理やりポジティブな要素を探し出し、俺は再び更衣室で作業着姿となった。
河瀬は今日も俺が来るとは思っていなかったようで、一瞬だけ驚いていた。しかし、すぐ無愛想な顔に戻り、昨日の部屋に俺を通す。そこには、時が巻き戻ったかのように五体満足なマネキンと工具が置かれていた。
「じゃ、昨日と同じ要領で」
こうして、2日、3日と時間は過ぎていった。
3日目の仕事前。またバイトの時間がやってくる。あの時間を乗りこえるには仮眠が必要だと思い、布団をかぶる。そのまどろみの最中だった。
薄暗い部屋。作業服の自分。いつもの電動工具。違うのは、そこにはマネキンではなく、生身の人間が縛られていたことだった。
「じゃ、いつもと同じ要領で」
河瀬はそう言い捨てて去っていく。縛られ、口をふさがれた男は涙目でこちらを見つめ、助けを求めている。
(仕事だし、今日もやらないと……)
工具を手に取った瞬間、バイト時間を知らせるアラームに起こされた。
最悪の気分でバイトに向かう。今日もあれをしなきゃというゆううつ。正夢になっているのではという恐怖。どす黒いものしか胸にはない。
その日以降はよく覚えていない。確か4日目か5日目に、「おまえ、もう来ないほうがいい」と河瀬が切り出したのだけは覚えている。俺はその言葉に甘え、8万か10万の金と引き換えにこのバイトを終えた。
こうして、バイトからは逃げ出せた。だが、俺はこの数日で二つの大きな副作用を得てしまっていた。3日目に見たあの夢を眠るたびに見続けることと、それが本当に夢なのかわからなくなってしまったこと……。
薄暗い部屋。作業服の自分。電動工具。しかし、そこにマネキンはない。いるのは拘束されて声を出せない誰か。赤の他人、家族、友人、恋人……。そんな夢のような現実のような光景をずっと見続けている。
バイトを辞めてから10年。この恐ろしい景色しかもう見えない。意識がもうろうとして、それが夢か現実かわからない。
それだけじゃない。友人、知人、誰でもいい。人に出会ったとき、つい彼らの五体、胴体との付け根ををじっと見つめている自分がいる。どこが切りやすいか、どうすれば手早く切断できるか、そんなことを考え込んでいる。刃物が人体に食い込む感触。勢いよく吹き出す血潮。そんな感触は知らない……はずなのに、脳裏に描いている自分がいる。
先日、事件が起きた。男が突然、通行人の腕を切り落とそうとし、それが無理だとわかると、いきなり自分の首を切り落としたらしい。
この男が、俺にバイトを紹介したE先輩のなれの果てだと知ったとき、俺は河瀬の最後の言葉を思い出した。
「これだけ続いたのは、おまえとEの二人だけだったな」
もしかしたら、俺もこれから誰かの体を切り落とすのかもしれない。いや、もうすでに……。
夢なのか現実なのか。切り落としたのか切り落としていないのか、もう、何もかもわからない。