老人の喜怒哀楽
哀 その1
「哀」はかなしいイメージではあるけれど、「悲しい」とは全く別の感覚で捉えている。
私はブログに詩を載せているが、悲という文字は使わない。
詩の中では悲しいことでさえも美しく表現し、胸のいたみも現実の悲しみと混同したくないからだ。
人を想って胸がキューンとなる哀しみ、それが読者に伝えられたらとの思いで詩作をしている。
現実の生活では自分や家族以外のことで稀に悲しい出来事に遭遇する。
この状況は辛いイクオール悲しみの感情だ。
今私は親友がそういう差し迫った状況で入院しているので「悲しみ」の感情の中にある。ふとそのことを思い遣ると自分も同化してたまらない悲しみが込み上げてくる。
これまで母や夫の入院でベッドに横たわっている様は見て来たけれど、超老齢や長年の療養の末のことだったので、仕方がないというその感情は「悲しみ」ではなかった。
現在の友の状態は元気いっぱいで精力的に活躍中の方がある日突然そういうことになったので、愕然とするその思いは悲しみとしか言いようがない。この悲しみがいつまで続くのか見当もつかず遠くから見守って回復を待つしかないと思っている。