Faff
茅野は息を漏らせるように笑った。なるようにしかならないというのは、篠原の持論だ。調達する側が言うことではないが、篠原は基本的に、あるものでなんとかしろと考えている。茅野は見えない西日に急かされるように、コーヒーを飲み干した。日はどこからも差し込んでいないが、そろそろ日が暮れるということが、なんとなく分かる。篠原は、バランスの悪い灰皿に吸殻をねじ込んで、言った。
「おれは上とちょっと話してくるから、時間を潰しててくれ」
言われた通りに食堂から出て、ロビーの土産物コーナーをうろついていると、後ろから声がかかった。
「明日からここで働くの?」
ちょっと前に聞いたばかりの声に、茅野は思わず振り返った。一番喜んでいた最年少の少女で、選んだのはやや重いボブカット。前髪も重めで、額を出さないで欲しいとお願いされた。すぐに外巻きになるくせ毛は無理やり内巻きに捻じ曲げて、結果的にカット前と一番印象が変わった。明日になれば外巻きに戻っているだろうが、今日だけは理想の髪型だ。
「いや、戻るよ」
「えー、なんで」
少女は体を左右に揺すりながら異議を唱え、茅野はどうやって切り抜けるか考えながら、自分が仕上げたボブカットを眺めた。すでに左側が内巻きの縛りから逃れて、外に向かい始めている。
「ヘアアイロンを持ってる奴は、いないのか?」
「何? 私はアンって呼ばれてる」
その反応を聞いて、茅野は青白いエントランスの窓に目を逸らせた。この子からすれば、自分が知っていること以外は、存在しないのと同じだ。狭い世界で、常にぶつかっているそれが壁だと知らないまま、生きている。いつまでも相槌を待たせるわけにもいかず、茅野は『アン』の方を向いた。
「おれは茅野、よろしく。名前がアン? アン・ルイスのアンか?」
「誰それ? バーバラ・アンのアン」
「分からねーよ。そっちこそ、アン・ルイスを知らないのか」
茅野が言うと、アンは咳き込むように笑った。
「いつからここで働くの?」
「ここでは働かないって。自分の店があるんだ。そこに戻らなきゃ、馴染みの客がボーボーになっちまうだろ」
茅野が言うと、アンは輪をかけて大きな声で笑い、土産物コーナーのレジ係が目線を上げた。茅野は思わず、目を逸らせた。あまり目立ちたくはないが、笑うなとも言えない。ひとしきり笑い終えたアンは、首を傾げた。
「どこ?」
「ここじゃない、どこかだよ」
そう言って茅野は一歩離れようとしたが、それより先に、アンの右手がスーツのジャケットの裾を掴んだ。
「それだと分かんない」
茅野は周囲を見回した。正直に答えたいが、どこまで教えていいのだろうか。根負けしたように観光用の広域地図を手に取ると、ページを開いた茅野は一点を指差した。
「ここにある。目印は三基の風車と、場違いなパチンコ屋だ」
そこには、道路の番号、デフォルメされた動物のイラスト、観光地であることを示す吹き出しがあった。茅野が反応を待っていると、スーツから手を離したアンは目を大きく開いて、スキャンするように頭を上下に動かした。
「へー、海沿いじゃないんだ」
その機械のような仕草を見た茅野は、笑いながら言った。
「記憶力はいい方か?」
「忘れられない」
「そうか、どんなことを覚えてるんだ?」
茅野が背中を丸めて小声で言うと、アンは地図から顔を上げてエレベーターの方を向き、同じように小声で言った。
「篠原さんは、前は小柳さんって人と来てた。二人でケンカして、それから小柳さんはここに来なくなったと思う。ケンカしてたのは、二〇〇八年の五月十七日で、土曜日」
名前を忘れてしまった誰か。てっきり篠原と違う仕事をしているのだと思っていたが、違ったようだ。少なくとも二年前までは、ホテルに出入りしていたらしい。それよりも、ダメ押しのように飛び出した日付に驚いた茅野は、言った。
「記憶力がいいな。日まで覚えてるのか?」
「カレンダーを見てたから」
忘れられないことが一番の悩みのように、アンは顔をしかめながら外に巻き始めた髪を撫でつけた。そんな得意分野があるのなら、いずれ重要人物になるだろう。その記憶力を試したくなって、茅野は言った。
「じゃあ、カレンダー以外のことは覚えてるか?」
アンはその問いかけを待っていたように、胸を張った。
「小柳さんは、いつか問題になるぞって言ってた。篠原さんは、モズのせいになるから大丈夫だって」
いい年をした大人が、十歳の少女に背丈を合わせてひそひそ話をしている。しかも、情報を得ているのは大人の方だ。客観的に考えると、その絵面はあまりに滑稽だったが、アンの表情は冷静で、大人顔負けの説得力があった。相槌を打つ直前に、エレベーターが一階についたときのチャイムが鳴り、茅野は地図を閉じた。エレベーターから降りてきた篠原に目配せをして、アンに小さく頭を下げた。
「アンちゃん、じゃあな。大人になったら、カットにおいで」
後ろをしばらくついてきているのが足音で分かったが、篠原と合流すると足音はそこで止まった。駐車場に出て、茅野は言った。
「おれを助けてくれた方の名前を思い出した。小柳だな」
「小柳、いたね。あいつも、今ごろどうしてんだろうな」
篠原はそう言うと、二十一番に停めたスプリンターGTの鍵を開けた。茅野は助手席に乗り込み、運転席に座った篠原に言った。
「うちの店を拠点に改装した辺りまではいたと思うんだけど、あの後すぐに辞めたのか?」
「ああ、ちょうどその辺りだったよ」
篠原はエンジンをかけながら、言った。茅野はホテルを振り返った。なるほど、記憶力がいいメリットというのは、確かにある。でも同じぐらいに、忘れられないというのは辛いことだ。新たな問題の火種を作ってしまうことだってある。それこそ、今のように。
あの子の言う通りなら、小柳は二年前までホテルに来ていた。だとしたら篠原はどんな理由にしろ、嘘をついていることになる。もっと気になるのは、アンちゃんがその後に言ったことだ。
いつか問題になりそうだが、モズのせいになっている内は大丈夫なこと。それが何なのかは、よく分からない。
真っ暗になった店に戻ってからも、そのやりとりは頭に残り続けた。元々、深く考える性格じゃない。その証拠に、手を切り落とされかけたときにまな板代わりにされたカウンターは、そのまま置いてある。もちろん、そんな適当な性格でも簡単に頭から消えないことはある。
窓の外に目を向けて、真っ暗闇の中を回る影絵のような風車を見ながら、茅野は引退について考えた。自分の本業は、あくまで理容師だ。今日は美容師の真似ごとをしたが、それなりに上手くいった。それに、子供が『客』になったのは初めてだったが、あれだけ喜ばれるなら、仕事の幅を広げてもいいかもしれない。
そうなるとますます、開店休業状態の現状が歯がゆく感じる。
− 現在 −
カバーを取ったランドクルーザーが積載車から下ろされるのを見ながら、カラスは誇らしげに腰へ手を当てた。
「ダークグリーンじゃん。分かってんねー」
ごろごろとタイヤを鳴らしながらローダーから降りてくる車体を眺めながら、ツグミは言った。