Faff
ツグミは咄嗟にそう言うと、相槌までの間を使って考えた。自分があの現場にいたということは、絶対に知られてはならない。サクラは宙に浮いた煙ごと吸い込むように煙草の先を赤く光らせると、細く煙を吐き出しながらうなずいた。
「依頼をごまかしてたってのが、問題になってる。わたしの知る限り、予算の消化率は九十パーセントぐらいだったけど、実際にはもっと低いらしい。余ったお金だけど、あなたはどっちの懐に入ってたと思う?」
その答えによっては、茅野はこのホテルから生きて出られない。ツグミはそのことを悟り、表情に出ないよう細心の注意を払いながら、首を横に振った。
「実際に発注していた記録がない限り、私には分かりようがないです」
「だよね。でも、茅野さんは毎回、雑誌の並びを写真に撮ってたらしい。それはヒントになるかな?」
サクラはそう言って、煙草の先で折れ曲がり始めた灰を叩き落とした。ツグミは茅野の顔を思い浮かべて、口角を上げた。ちゃっかりしているのか、とことん抜けているのか、本当によく分からない人だ。
「助けにはなると思います。ただ、それ自体はルール違反じゃないんですか?」
「アザミはむしろ、感心してたけどね」
サクラはそう言って、用が済んだように煙草をもみ消した。ツグミは作業場に戻り、全身にまとわりつく煙草の匂いに辟易しながら、八時の点呼に参加した。形式だけの朝礼が終わり、食堂と作業場の間の通路にさしかかったとき、後ろから追いついたカラスが肩をぽんと叩いて言った。
「煙草の匂い、えぐいんだけど。サクラに呼ばれた?」
ツグミがうなずくと、カラスは肩を震わせた。
「武闘派すぎて怖いんだよな、サクラは。現場に戻りたがってるって噂もあるし。何か食べる?」
ツグミは首をかしげてから、軽く横に振った。
「先に呼ばれそう」
奥の会議室の電気が点いている。食堂に入って席につくか、食事を終えたタイミングで、出入口にサクラが現れて手招きをしてくる気がする。今から起きることを考えたら、胃は空っぽの方がいい。ツグミが覚悟を決めたように顎を引くと、カラスは言った。
「ご安全に。じゃ、後でね」
手をひらひらと振ると、カラスは前髪に半分隠れた方の目でウィンクをした。ツグミは微笑むと、食堂に入っていくカラスの後ろ姿を見送った。元気な声で厨房に挨拶をして、朝からパフェを頼んでいる。前に向き直ると、会議室からサクラが出てきて、予想通り手招きした。
「ご飯はいいの?」
ツグミはうなずくと、サクラに続いて会議室に入った。両目の下にクマを作ったアザミが、大きな黒縁眼鏡すら重すぎるように外して傍に置き、両手で顔を覆ったところだった。ツグミが一礼すると、アザミは眼鏡を外したまま向かい合わせの席を目で指した。
「ツグミ、おはよう。ちょっと聞きたいことがある」
ツグミが席につくと、サクラはアザミの隣に座った。向かい合わせで二対一の構図は、事情聴取だ。アザミはパソコンの中身は見せてくれないだろうし、その隣に置いてあるスマートフォンはおそらく、茅野のものだろう。アザミは眼鏡をかけると、何度か瞬きを繰り返してから、言った。
「今回の仕事で、篠原さんが死体で運び込まれてきたんだけど。茅野さんは、篠原さんが依頼をごまかすのにうんざりしてたって、正直に話してくれた。あなたも、同じように考えてる?」
サクラが喫煙所で話していた内容と、よく似ている。ツグミはうなずいた。
「手配される銃が依頼と食い違っていることは、確かにありました」
「でも、そこから先は分かりようがないよね。ホテルの中から見えることなんて、知れてるから」
そう言ったアザミは、スマートフォンをサクラに手渡した。ツグミは反応することなく、次の言葉を待った。何か問題が起きたときは、アザミは天秤のように公平な判断を下す。そこには、組織の中での立ち位置であったり、役職といったものは存在しない。全く忖度することなく鉈を振るう冷徹さは、誰からも恐れられている。アザミはノートパソコンに視線を落としていたが、大きく息を吸い込むとぱっと顔を上げて、ツグミの目をまっすぐ見据えた。
「あなたは、現場にはいなかった。それで合ってる?」
「はい」
ツグミは即答した。アザミは、硝煙の匂いを確かめている。ありがたいことに、煙草の匂いにかき消されているようだった。アザミはノートパソコンの画面に目線を戻して、言った。
「後は、消えた予算がどこに行ったかってことだね」
ツグミはうなずいた。視界の隅でサクラが微かに口角を上げたのが見えて、朝から喫煙所に呼ばれた理由が分かった。私が現場にいたことなんて、サクラはお見通しなんだろう。だから、硝煙の匂いを打ち消せるように、隣で機械のように煙草を吸っていたのだ。こんな形で守ってもらえるなんて、思ってもいなかった。
アザミはひと息つくと、サクラの方を向いた。
「そのスマホに、写真が入ってるんだよね」
サクラはうなずくと、スマートフォンのロックを解除した。
「ただ、雑誌の暗号になってるんで、読み解くのは大変ですね」
ツグミは息を整えて、姿勢を正した。そして、二人に聞こえるようにはっきりとした声で言った。
「二〇二五年四月二十七日。12ゲージの散弾銃、MP5、シグP228」
サクラは写真に写る雑誌の並びと突き合わせると、スマートフォンを見つめたまま目を大きく開いて、アザミと視線を合わせた。その指が動いて次の画像を表示させたとき、ツグミは言った。
「二〇二五年二月十七日。短銃身のAR15、サプレッサー、容量五十発以上の弾倉が三本」
アザミは黒縁眼鏡をずり上げると、サクラが持つスマートフォンを横からスクロールして、言った。
「二〇一九年五月七日は? 六年前だけど」
「口径5.45ミリのAK、グロック19、グロック36」
ツグミがすらすらと答えると、アザミはスマートフォンを見つめたまま目を丸くして言った。
「覚えてるの?」
「今までの依頼は、全部覚えています」
ツグミはそう言うと、二人の反応を待った。依頼をごまかしていたのが篠原の方だということは、私の記憶と突き合わせれば分かるはずだ。そして、それが証明できれば茅野の命を救える。アザミは感心したように口角を上げると、大きな目をぐるりと動かして、視線をツグミに戻した。
「すごい才能だな。異動の話は、考えてくれた?」
「せっかく頂いたお話ですが、私はここに残りたいです」
ツグミが言うと、アザミは笑顔のままうなずいた。
「分かった」
サクラはスマートフォンから目を離し、アザミの方を向いて言った。
「茅野さんは、どうするんですか?」
「シエラは、もう閉めたいかな。もっと効率のいい拠点は、他にもあるし」
アザミが温度の無い口調ですらすらと言い、ツグミは心臓を掴まれたように体を強張らせた。ツグミとサクラの両方から視線を向けられていることに気づいたアザミは、自分の言葉の冷たさを弁護するように、肩をすくめた。
「ここにも、美容室があるでしょ。そういう意味だよ」