審問官第三章「轆轤首」
《吾》の在処が《吾閾》にあるとするならば、《吾閾》は零次元、つまり、点としても、一次元、つまり、線としても、二次元、つまり、面としても、三次元、つまり、立体的な何かとしても、四次元、つまり、《吾閾》が四次元多様体としても、更にこのやうな事を蜿蜒と続ければ、∞次元まで考へる事は可能で、それは《吾》が表象と呼ばれる何かであるといふ事は、表象は、例へば、∞次元の何かであると言へなくもないのである。
《吾》が《吾閾》の中でのみ轆轤首であり得ると仮定してみると、厖大なDataが蓄積される仮想空間に《吾》が均等に《存在》する可能性は零である筈はなく、つまり、仮想空間の何処でも轆轤首の《吾》が《存在》する可能性は確率零でなく、否、《吾》なる《もの》は、《吾閾》に均等に《存在》する《もの》であり、更に、轆轤首が仮想空間に何時でも《接続》可能なのは、《吾》が仮想空間に何時でも《存在》してゐる可能性を暗示してゐるとも考へられ、さて、さうなると、《吾》は《吾閾》以外の何処にも或るひは《存在》可能な何かと想定する事も可能と言へるのである。
すると、《吾》は此の世の何処にも《存在》すると仮定出来なくもなく、《吾》は、仮想空間に轆轤首として《存在》するばかりでなく、此の現実の《世界》にも、それは限りなく零に近いとはいへ、しかし、《吾》は、確率が零に為る事は《神》すらも断言出来ぬやうに此の《世界》の《吾》以外の何処にかにも《存在》する《もの》としてあると考へられなくもないのである。
Cogito,ergo sum.が、もしかすると《吾》を《吾》なる《もの》へと封じてしまった元凶であったかもしれず、東洋では極当たり前の《気》といふ《もの》は、《吾》が《吾》以外の此の世の何処かに《存在》可能な事を言ひ表はしてゐる一つの世界認識の仕方に違ひなく、多分、《吾》が《吾》に封じ込めらた事は、全宇宙史を通しても現在程過酷に《吾》の身の上に《存在》した事はなく、つまり、この事を極論すれば、シュレディンガーの波動方程式により《吾》も《他》も此の世の何処にも遍く《存在》可能な《もの》なのかもしれないと考へた方がどうやら自然の道理のやうな気がしないでもないのである。
さうすると、《吾》も《他》も、或る時は《吾》や《他》には《存在》せず、何処とも言へぬ神出鬼没な《もの》として、此の世に遍く《存在》する可能性の確率は決して零ではなく、換言すれば、《吾》を語るには此の世を遍く語る事に等しき事で、つまり、《吾》の理解とは即ち、此の宇宙を理解する事に等しいに違ひないとも言へるのである。
ところで、《吾》が《吾》である、例へばそれを《絶対吾》と名付ければ、その《絶対吾》が《吾閾》に確率《一》で《存在》しないのかと自問すれば、既に《吾》が轆轤首となって仮想空間に《接続》し、仮想空間を自在に行き交ふ《吾》といふ《もの》を知ってしまった《吾》において、《絶対吾》なる《もの》の《存在》は一笑に付すべき《もの》で、《吾》は彼方にゐたかと思へば此方にゐるといった此の世に遍く《存在》可能な恰も忍者の如き《もの》として此の世にあり、それ故に《吾》は《吾》にぽっかりと開いた穴凹を見ては、《吾》は《吾》に踏み迷ふのである。さうすると、《吾》に関して《吾》を「こやつが《吾》だ」とは最早名指せぬやうに為り下がった《吾》は、既に渾沌に投げ込まれてゐて、その《吾》を《他=吾》と名付ければ、その反語のやうなその言ひ回しの《他=吾》として《吾》は、既に此の世に《存在》してしまってゐると確率論的に考へた方が自然とも言へるのである。
さて、先ずは、《他=吾》とは、此の世に《存在》する《吾》と《他》との間を巧く取り持つ潤滑油の如き《もの》とも考へられなくもなく、《吾》に《他=吾》が《存在》するといふ事は、《吾》は《他》へと想像力を以て《他》の有様に思ひを馳せて、《他》もまた《吾》と同様に《吾》にぽっかりと穴を開けた《パスカルの深淵》に恐怖し、それ故に《吾》は《パスカルの深淵》を覗き込む欲望に打ち勝ち難い事は、《他》にとてっても同様の欲望と看做すの事が可能である。
つまり、それは《吾》と《他》は《存在》に対しては同志であると看做せ、《吾》が確率《一》としては此の世に《存在》する事はあり得ない事象である事から、《吾》は元来、《他》に浸食された《存在》として「先験的」に強要された《もの》以外の何《もの》でもないのである。
それでは、《吾》にぽっかりと開いた穴凹たる《パスカルの深淵》が《吾》における《他》と看做せるかと問へば、それは本能的に違ふと《吾》は感じ取り、《吾》に《存在》する《パスカルの深淵》にこそ、《吾》のGrotesqueな本質が隠されてゐて、その代はり《他=吾》はサルトルがさう呼んだ対自に近しい何かであって、《他=吾》は、万物共通の己に巣食ふ《吾》の一様相であり、《他=吾》は《存在》が《存在》足らしめてゐる万物共通の《吾》の一面相と看做すと、《存在》が《存在》を認めるのは、如何なる《存在》にも《他》を類推する《他=吾》が確かに《存在》する外に、《吾》は《他》と対峙し、そして《他》と解かり合へる《もの》ではないのである。
では、《吾》にぽっかりと開いた《パスカルの深淵》は何なのかと問へば、《吾》が例へば生き物を例として取り上げれば、たった一つの受精卵から、細胞分裂を繰り返す、その時の《吾》たる一細胞が不意に分裂して二つの《吾》といふ細胞が生じる時の奇妙さに深く根差した不安とも名状し難い《吾》のみぞ知る《吾》なる《もの》の不気味さに外ならないのである。
しかし、その細胞分裂は、生き物であれば、如何なる生き物も経験してゐる筈で、それこそが《他=吾》で、細胞分裂の奇妙で不気味な感覚を共有する事でお互ひにその《存在》を認めると想定したい処であるが、しかし、たった一つの受精卵は将に此の世にたった一つしか《存在》しない受精卵、換言すれば、いづれも遺伝子が異なる故に、その此の世に二つと《存在》しない受精卵が不意に細胞分裂をする時の奇妙で不気味な感触は、只管、《吾》は、最初に二つの分裂した細胞を跨ぎ果し、次に、四つに分裂すれば、《吾》は四つの細胞を跨ぎ果す何かであって、それは、徹頭徹尾《吾》にしか知り得ない《もの》で、また、《パスカルの深淵》の淵源を辿れば、この細胞分裂する《吾》といふ細胞の奇妙で不気味な処へと辿り着く筈で、其処では、五蘊の中でも色の最も大きな影響下にある筈である。その時には色を欠いた《四蘊場》の仮想空間に自在に《接続》する轆轤首の《吾》における《パスカルの深淵》のやうな《吾》にぽっかりと開いた陥穽は全く《存在》せず、詰まる所、《吾》の本質に深く関係する《パスカルの深淵》が如何なる生き物も含有してゐる為に、己の《存在》の不可思議で尊ひ《もの》である自覚がそれ故に芽生えるに違ひなく、尤も《パスカルの深淵》を含有する《吾》の皮相な部分では、《吾》は《他》と連帯し得るが、《吾》が《他》と連帯する最たる《もの》は、《パスカルの深淵》の共有ではなく、《吾》に必ず《存在》が確立零でなく《存在》する対自たる《他=吾》が《吾》に必ず侵食してゐる事を通しての事に違ひないのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪