審問官第三章「轆轤首」
それでは、《パスカルの深淵》は《他》においては《存在》しないのかと問へばその答へは、
――否。
な筈である。それは共同幻想と言ってしまへば身も蓋もない事なのかもしれぬが、《パスカルの深淵》と言ふだけで、既に此の世には誰の目にも見えてしまふ底無しの深淵があるといふ感覚を払拭出来ぬ筈で、つまり、誰も《吾》を特定出来ぬままに此の世に《存在》してゐる証左こそが、《パスカルの深淵》の有無に違ひないのである。
当然、
――俺には《パスカルの深淵》なんてありゃしないぜ。
といふ《もの》の方がもしかすると圧倒的な数かもしれぬとはいへ、さういふ《もの》共も《吾》に関して百パーセント知ってゐるかと問はれれば、必ず、
――否。
と答へるしかない筈なのである。
さて、其処で《吾》は殆どの場合、不意に《吾》に現はれた《パスカルの深淵》に落っこちるのが落ちで、目を閉ぢれば瞼裡の薄っぺらな闇ですら涯なき闇へと通じてゐるかの如き錯覚に無限を重ねてみるのであるが、瞼裡の闇が、頭蓋内の闇と直結してゐる事を不意に思ひ出しては、《パスカルの深淵》といふ言葉に無限を対峙する《吾》といふ、《パスカルの深淵》に落っこちて、闇しか見えない《吾》を象る事になるのであるのである。さうして、象られた《吾》の姿形は、《吾》を満足させる事は一度たりともなく、況してや、さうして象られた《吾》が轆轤首では尚の事、自己嫌悪のみを《吾》に齎すのみなのである。
ところで、此の世の森羅万象が、皆、《パスカルの深淵》を目撃し、そして、《パスカルの深淵》に落っこちて轆轤首へと変態してゐるのかと問ふと、それは、多分、さうに違ひないと答へるのが正直な回答に違ひないのである。つまり、《存在》が《吾》を認識する《もの》として此の世に出現した時点で、その《存在》には瞼が必ずある筈で、例へば如何なる《存在》も仮象の目を持ち、仮象の瞼があると仮定すれば、闇の《存在》をどうあっても知ってしまってゐる此の世の森羅万象は、「先験的」に《パスカルの深淵》に落っこちてゐる《存在》として此の世に起つのである。
ところが、それに対して、
――そんな事は一概に言へないぜ。
といふ半畳が飛んで来るに違ひないのであるが、しかし、《存在》といふ《もの》に思ひを馳せると、どうしても闇とか無限とか、《吾》とは無関係な《もの》と対峙させつつ、何とか《存在》ににじり寄る愚直な思考法しか知らない《吾》は、とにかく、《存在》といふ言葉に翻弄される事で、何となく《存在》に近づいたなどと錯覚しながら、絶えず《吾》は《吾》に踏み迷ひ、さて、困った事に《吾》の事象の地平線たる《吾閾》が将に《パスカルの深淵》とぴたりと重なったとする虚妄に一度は、
――Eureka!
と歓喜するのであるが、それをよくよく見れば、首ばかりが伸びる轆轤首である事が解かると、何《もの》も驚愕の声を上げて、
――《吾》は何処?
と、再び《吾》に踏み迷ひ、《吾》は《吾》の内外に《存在》する《パスカルの深淵》の底無しに今一度嘆きながら、その底無しの《パスカルの深淵》に落っこちて、果てしなく自由落下をしつつ、《吾》は尚更、首ばかりを伸ばしては漸く此の世に顔を出して息継ぎをし、さうして仮初に《パスカルの深淵》を忘却する仮想空間における快楽装置でしかない轆轤首へと変態する《存在》以上の何《もの》にもなれやしないのであった。
成程、《パスカルの深淵》へと自由落下が、《吾》に湧き起こる快楽の発生装置である事は、何時頃からか《パスカルの深淵》を自らの棲処にしてしまった《吾》にとって疑ふ余地がないやうに思へ、その《吾》はといふと《パスカルの深淵》を自由落下してゐて、しかし、当の《吾》は、己が落下してゐるとは全く露知らず、《吾》はといふと、《パスカルの深淵》で自在に飛翔してゐる自在感に自己陶酔してゐるのである。つまり、《吾》は《吾》から遁れられるかもしれぬといふ幻想を思ひ抱きながら、《吾》における《吾》の裂け目にぱっくりと口を開けてゐる《パスカルの深淵》に逃げ込んだのである。それ程に《吾》は存在論的に追ひ込まれた状況にあった事をこれは示してゐて、ところが、《パスカルの深淵》へと逃げ込んだ《吾》は、最悪の事態を《吾》に齎す事には《吾》は思ひ及ばず、《パスカルの深淵》を自由落下する《吾》にとって、自由落下が齎す自在感こそ《吾》が《世界》を見誤る元凶なのである。
《吾》に芽生えてしまった自在感は、得てして《吾》を傲岸不遜な《存在》へと変貌させる契機になりかねず、ひと度自己の《存在》を全面的に肯定してしまった《吾》といふ《存在》は、此の世の王の如く《世界》の中心は、《吾》である錯覚の中で自滅するのが関の山で、また、《パスカルの深淵》へと逃げ込んだ《吾》は、《世界》もまた《パスカルの深淵》でしかない事に気付く筈もなく、《パスカルの深淵》へ逃げ込んだ《吾》の《世界》は永劫に続く入れ子構造をした《世界》を《吾》には、さうとは全く気付く事なく、《吾》に無限といふ名の幻影を見させ、その事で、《吾》は無限と対峙してゐるといふ全くの錯覚でしかない《吾》の有様の誤謬に《吾》を閉ぢ籠め、結局の所、《パスカルの深淵》へと已む無く逃げ込まざるを得なかった《吾》は、《吾》以外の《もの》からすっかりと遮断されてゐるので、《パスカルの深淵》に逃げ込んだ《吾》は、大概、自己の事しか考へられずに、《吾》に《他=吾》なる《吾》には何の事か解からぬ奇妙な《もの》が棲み付いてゐる事に、生涯思ひ至る事無く、換言すれば、《世界》との和解の機会が未来永劫訪れる事無く、尤も《パスカルの深淵》に逃げ込んだ《吾》の世界観はといふと、《吾》を中心とした同心円状の世界観に陥る事で、現実を見る苦痛から生涯遁れる秘密を知ったかの如く素っ頓狂な世界観に奇妙にも満足出来る《存在》に為り果てて、詰まる所、《パスカルの深淵》に遁れた《吾》は、あらゆる事が、誤謬の中にある事に生涯気付く事無く、夢の如き《生》を生きるのである。其処には、一度たりとも現実が顔を出す事無く現実は悉く隠蔽されるのである。つまり、《パスカルの深淵》では因果律が壊れてゐるのである。
現実が隠蔽された自己完結型の奇妙な《世界》から這ひ出る事も無く、只管、《吾》にのみ向き合ふだけの或る意味幸せな、しかし、とんでもなく不幸な世界観の中で自己と戯れる《吾》は、其処に《他》を全て隠蔽するので、《吾》は、自己観想する事で、何重にも折り重なった蛇腹状の《吾》の心地良さにうっとりしながら、生涯その夢の《世界》から這ひ出る事無く、つまり、現実を絶えず見失しなひながら、《吾》において《吾》が自存する大莫迦者が出現する事になるのである。
現実に、生涯一度も出合はない《生》の不幸は、言はずもがなであるが、しかし、《吾》の性質として、現実を隠蔽するのは至極当然の事であって、それであるが故に尚更、《吾》は《他》が無数に《存在》する現実に対して目をかっと見開かなければ、決して《吾》なる《存在》を把捉する事は不可能なのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪