審問官第三章「轆轤首」
この箴言は、私において最も闡明するのである。私は、さて、一日に何人の《異形の吾》を殺害してゐるのであらうかと、自身に問へば、多分、百人は優に超える《異形の吾》を殺害しているのは間違ひなく、しかし、《異形の吾》は《吾》が《存在》する限り不滅で、何度殺されようが何度でも甦り、決して屍となって《吾》の現前に横たはる事はなく、只管《異形の吾》は、《吾》を侮蔑しながら、絶えず自己憎悪へと《吾》の在り処を持って行く、私にぽっかりと開いた陥穽、それを敢へて名付ければ、《パスカルの深淵》に外ならないのである。
ところで《異形の吾》とは、自身が思ひ描く理想の《吾》でしかないといふ見方が出来得るかもしれぬが、《異形の吾》は、そもそも深海生物の如くGrotesqueであり、本性剝き出しの《吾》である。それを《吾》と看做す《吾》は、さて、何を根拠に《吾》と判断してゐるのかを熟考してみると、《吾》がそもそもGrotesqueで、《異形の吾》が《吾》と名乗ってゐるからである。
では、《異形の吾》は対自であるのかといふと、どうも対自では捉へ切れぬ《もの》で、《異形の吾》は、即自と対自との両面を持ってゐて、また、《異形の吾》は脱自すらをも暗示する奇怪な様相を持った《もの》なのである。そして、《異形の吾》の一形態が轆轤首とも言へるのであるが、轆轤首の《吾》には、普通に《吾》を名指してゐる極、普通の《吾》もまた、轆轤首へと変化してゐるので、換言すれば、轆轤首に《吾》が変化するのに何の躊躇ひもなく、即座に《吾》は轆轤首へと変化し、五蘊の色が欠落した仮想空間に脳を接続させて、それからは、伸縮自在の首を持つ轆轤首へと変容するのであった。
さて、ところで、轆轤首へと変容する《吾》とは、しかし、考へてみると、轆轤首の《吾》は、頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に生滅する表象群と同属の《もの》と考へられなくもないのである。つまり、内的自由と轆轤首の《吾》は同属の《もの》で、成程、轆轤首の《吾》は首が自在に伸縮出来る故に、もしかすると自由かもしれないのであるが、でも、それは仮初の仮象においてさうなのである。ところで仮初の仮象は何かと言ふと、それは生まれては即座に闇の中に消ゆる運命の思考群、若しくは、表象群と言へなくもないのであるが、その生まれては即座に消ゆる運命にある思考群――それはその時の気分に大いに左右されるが――に何処か似てゐなくもなく、ところが、思考といふ《もの》は、深く色たる肉体に根差した《もの》であり、色の欠落した《四蘊場》を自在に行き交ふ轆轤首には徹底して色、つまり、肉体が欠落した妄想群が犇いてゐるのであり、それは、詰まる所、深海生物の妄想がその姿に直結したやうな闇の深部における思考の事を総じて《四蘊場》の表象と看做してしまふと、仮想空間に生滅する《もの》は、色即是空、空即是色に限りなく漸近するかもしれぬ可能性を秘めた何かかもしれず、尤も、仏教徒、若しくは修行者は、肉体を酷使するが、轆轤首においては色たる肉体は単なる四蘊の附属に過ぎす、それを譬へて言へば鮟鱇(あんこう)の雄に過ぎず、また、例へば仮想空間に対して肉体は別段どうでもよく、況して酷使することなどあり得ず、或る意味、轆轤首と化した《異形の吾》において、色たる肉体も含めた《五蘊場》は、自由を満喫してゐると看做せなくもないのである。しかし、轆轤首と化した《異形の吾》には徹底して欠落してゐるのは現実であり、仮想空間には、徹底して諸行無常は欠落し、つまり、仮想空間では更新、上書きされる事は当然の成り行きであり、只管、Digital記号化されたDataが蓄積され、それは何時でも同じ《もの》が参照可能な、極論すれば、まるで、時が停止した世界の一様相を表はしてゐる何かと言っても過言ではないのである。尤も、仮想空間には現実を反映した表象が現はれるが、それは、しかし、仮想空間に出現した途端に徹底して時間為る《もの》を剥奪された去来(こらい)現(げん)の中で絶えず置いてきぼりを食ふ宿命にある現在なる《もの》のみにその価値が収斂されてしまった、永劫に成長することを禁じられた思索の未熟児と言へなくもないのである。
では、去来現の中で現在のみが絶えず置いてきぼりを食ふといふ事態を、文字通り感覚的にでも理解してゐる人は、これまた、私のみなのかもしれないと思ふが、しかし、「現存在」の頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》においては、未来と過去は可変する《もの》で現在のみ絶えず現実に対峙してゐるので、現在のみ不可変な《もの》として、「現存在」は絶えず現在に間断なく投企されてゐる事態に正直な処、「現存在」は絶えず戸惑ってゐるのである。その戸惑ひは絶えず変容する事を強要されてゐる「現存在」の忙しさによるところ大と思はれるが、現在において現実に対峙するしかない「現存在」の《存在》などお構ひなしの現実に対して、「現存在」は己の生存を賭して生存する術を考へられるだけ考へながら現実に対して当意即妙に絶えず変化する現実に対応する事に精一杯なのも、また、「現存在」が置かれてゐる深刻な事態なのである。現実により変容を余儀なくされてゐる「現存在」は、現実により絶えず変容を突き付けられる事により、どうした訳か時間を線直線の如き一次元の連続体として朧に想像してゐるのであるが、此のDigitalで、現在の様態を絶えず蓄積し、Dataとして全て過去化若しくは未来化する事で、尚更、現在においてきぼりを食ふ現在、或るひは、絶えず現在を蓄積してゆくDataにより導き出された現在に対する過去の惰性若しくはDataにより予測される未来から逆算される現在といふ在り方が、それ迄裸一貫で現実に対峙して来た「現存在」に、厖大なDataの網で把捉可能な《もの》として現在を、「現存在」においては制御可能な《もの》といふ幻想を与へる事になったのであるが、しかし、自然の猛威の前ではそんな軟な幻想は木端微塵に砕かれて、再度「現存在」は絶えず激変する遁れやうのない現実に対峙してゐる事を再認識させられたのである。去来現において現在のみが置いてきぼりを食ふのは、「現存在」の生存を賭けた気概なしには「現存在」は現実を生き残れないといふ事態に直面してみると、「現存在」は、生きてゐる事は単に奇蹟でしかなく、その「現存在」を《生》と《死》に分けるのは、もしかすると単なる偶然に過ぎないのではないかと、現実に対して疑惑の目を向けるのであるが、しかし、「現存在」は直ぐにまた、厖大に蓄積されたDataに縛られる事を望んでゐるかの如く外部の仮想現実に脳を《接続》させ、再び、「現存在」は、この期に及んでも轆轤首へと己を変容させる愚行を再び行ふのが、多分、多数の「現存在」の有様なのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪