審問官第三章「轆轤首」
仮に己が色の欠落した《四蘊場》において轆轤首であるといふ自覚が全くないとしたとしても、それはそれで別段構はぬのではあるが、しかし、その時の自己同一性は如何様な《もの》なのだらうか? 例へばそれは夢中といふ有様として看做せるに違ひない。それでは夢中なる《吾》とは如何様な《もの》なのか、と、また、自問自答すると、「吾(わ)が心此処に非ず」の状態で、それが仮に読書としてみれば、《吾》は読書により刺激を受けた頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に、己が構築した架空の《世界》に《吾》は《神》の如くに出現してゐる筈である。読書は当然、「現存在」を本の《世界》へと引き摺り込む《四蘊場》の仮想世界を表出する、つまり、「現存在」は轆轤首となり、それ故に、本の物語世界に《神》の如く出現する事が可能なのは、「現存在」が《五蘊場》を持つ故にである。すると、単純に物事を考へちまふと《神》は、即ち轆轤首の姿に似た何かと言へなくもないのである。「現存在」は《五蘊場》ならば、《神》は「現存在」にとっては千変万化する現実に与した《六蘊場》の主と名指せる《存在》なのかもしれないのである。つまり、「現存在」の《五蘊場》に相当する《もの》が《神》において《世界》といふ現実なのである。
ところが、物事といふのはそんなに単純な訳がなく、世の中で「解かり易い」事は単なる虚構に過ぎず、また、眉唾物で、現実といふあらゆる現象は、皆、複雑怪奇であって、因果律のやうに一見解かったつもりになっている現象は寧ろ数少ないのが現実で、つまり、現実といふ《もの》が複雑怪奇故に「現存在」は愉悦を伴ひながら生き永らへてゐるのかもしれぬのである。
既に、《吾》の《存在》自体が不可解極まりないのである。況して「現存在」が轆轤首へと変容してゐるなどと自覚してゐる「現存在」は殆どゐない、否、私以外ゐないに違ひなく、つまり、私は、「現存在」を、色を欠落した《四蘊場》における轆轤首と名指して一人合点して、己を納得させたいだけなのである。全く莫迦丸出しであるが、しかし、《吾》なる《もの》は、《吾》を《吾》にひれ伏せる事が出来るのであれば、何でもする《存在》な筈である。さうせずにはをれない不安な《存在》が「現存在」で、「現存在」を一皮剝けば、現実に絶えずびくびくしてゐる卑賤な《吾》を見出す筈である。さうして暫く眺めてゐると、その卑賤なる《吾》はひょろひょろと首を伸ばし、色に現実を全て背負はせて、首のみ仮想世界へと飛び立つ現実逃避をし、独り悦に入るのが常なのが観られるに違ひないのである。
さて、それでは、自己とは肯定される為に《存在》するのか、将(はた)又(また)、自己否定する為に《存在》するのかと再び自問自答すると、私の経験からすれば、《吾》とはどう足掻いても自己否定する《存在》としか思へず、然しながら、本音の処では自己肯定したくて堪らないのであるが、実際に自己肯定してみると、お尻がむずむずとこそばゆくて、どうも居心地が悪くて仕方ないのである。そして、一時たりとも自己肯定する《吾》を許せないのであった。これは病的な迄に執拗極まりない私の悪癖に違ひないのであるが、仮令、それが原因で心が病んでも自己否定は止められる筈もなく、思ふに、私は、私に《吾》を殺戮する事によってのみ、私が生き延びてゐるとしか思へない或る意味哀しい《存在》なのであった。そして、その殺害すべき《吾》の一様相が轆轤首なのは間違ひないのである。
実際の処、高度情報化社会で巧く立ち回るには、「現存在」は、否応なく轆轤首に変化しなければ「現存在」失格なのもまた、事実である。それでは、自身を轆轤首であると断言出来るかといふと、多分、誰も己が轆轤首に変化してしまってゐる事は、事実として受け容れ難く、寧ろそれは忌避する事に躍起になる筈である。
そもそも「現存在」は己が轆轤首に変化してゐる事を認める以前に、そんな突拍子もない事を考へる必然性がなく、果たせる哉、「現存在」が轆轤首だらうが、そんな事は「現存在」にとっても知ったこっちゃなく、自身が轆轤首であった処で、
――それが一体どうしたというのかね?
といふ全く無意味な問ひでしかないのが実際の処で、
――「現存在」の異形が仮令轆轤首であったとして、それが「現存在」にとって何か不都合でもあるのかね?
と、大抵の場合、「現存在」が轆轤首である事は、全く「現存在」にとっては無自覚なまま、日常を普通に送ってゐるのであるが、しかし、一度《吾》といふ《もの》に躓いてしまった「現存在」は、それまで「私」と名指してゐた《もの》が《吾》と《異形の吾》との齟齬に懊悩してゐて、その結果として「現存在」はどうあっても《吾》を規定せずば、気が済まない《もの》なのであった。
其処で、私なる《もの》が、《吾》と《異形の吾》との統合であり、私は絶えず《吾》と《異形の吾》とに入れ替はり立ち代はりながら、「私」である事を継続してゐるのである。そして、《吾》と《異形の吾》が自己で括れなくなった刹那に《吾》が轆轤首である奇怪な《吾》を垣間見る事に為るのであるが、大抵は、そんな事に気付かずに、否、目隠しをして、私は《吾》と《異形の吾》の齟齬には立ち入らずに、盲目的に自己肯定するのみで、《吾》の異形が轆轤首である事に知らんぷりを貫き通すのである。
ところが、一度《吾》の異形が轆轤首である事に気付いてしまった私為る《もの》は、既に自己肯定する筈もなく、只管、自己憎悪するばかりが関の山で、さうして私は轆轤首の《異形の吾》を殺害する事ばかりに執着し始めるのである。何故なら私といふ《もの》が私以外の何かである事には一時も我慢がならないのである。つまり、私は《吾》においては徹底的にRacism(差別主義者)で、《異形の吾》は、決して受け容れ難く、常に《吾》は《吾》であるといふ自同律が成立する事に自身の存在根拠を見出し、また、《吾》=《吾》である事の嘘っぱちである事を言挙げする事は永らく禁忌であったのであるが、埴谷雄高が「自同律の不快」と言挙げした事で、《吾》と《異形の吾》の間には 跨ぎ果せない大穴がばっくりと口を開けてゐて、その底無しの奈落に《吾》に踏み迷った《もの》はどうあってもその陥穽に飛び込む衝動に我慢出来ず、結果として次次と飛び込むのである。それはその陥穽に棲む《異形の吾》を殺害する為にあらゆる手練手管を駆使して、轆轤首たる《異形の吾》の首を取って勝鬨を挙げる事ばかり夢想する事による為であるが、その執念たるや凄まじいの一言である。尤も何故に自己憎悪が凄まじい《もの》に為るかと言へば、それは自己愛故のことである。
――奴は敵だ! 敵は殺せ!
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪