審問官第三章「轆轤首」
つまり、現在、ITは二極分化を始めてゐて、これまでのやうに紙媒体を真っ直ぐに延長した《もの》と、これまでも楽しんでゐた映画に代表される動画的な《もの》へと分化し、そして、誰もが、文字であらうが動画であらうが発信出来る状況がITが置かれた現在で、文字情報だと仮想空間は二次元で、動画だと三次元となり、時間も含めた四次元世界に常態する「現存在」は、仮想空間が三次元以下の次元である場合にしか轆轤首に為れず、仮に仮想空間が四次元になると、最早「現存在」が轆轤首に為る事は不可能で、全身をその四次元の仮想空間へと「現存在」はぶち込まれる筈である。多分、「現存在」は仮想空間が四次元世界になる事を望んでをらず、己が轆轤首となって首のみ時空間を自在に行き交へる三次元の動画以外の四次元の《もの》は無用の長物になるに違ひない。
それ程に「現存在」が轆轤首に為る事は、快楽なのだ。twitterなどの個人が発した文字情報と動画を既に組み合はせた《もの》も登場してをり、Televisionは最早時代遅れの《もの》へと変はりつつ、私も含めてTelevisionを殆ど見ない「現存在」が確実に増えてゐると言はれるが、動画は、私にすれば、映画と、そして、個人が発信する少数の動画サイトがあればそれで十分なのだ。私は、己が轆轤首と為って、己の異形を存分に味はひたければ、映画を見、それは映画が映画監督の作品だからであり、その点、Gameは私にとっては退屈な時間でしかなく、Gameは、首を伸ばした轆轤首となりながらも手足などの身体をも動かす面倒が付随するので、己が轆轤首となる事では、Gameは私には要らない《もの》なのであり、Gameをする虚しさに私は堪へられないのである。それならば、全身全霊を轆轤首へと変化して己の頭蓋内の脳と言ふ構造をした闇たる《五蘊場》を弄ったり、映画を見たりする事の方が十分に魅力的なのである。
そんな轆轤首の悪癖の一つに、ぐっと首を伸ばしてMonitor画面上に映った《存在》を五感では感じられないにもかかはらず、全てが解かったやうな気に為る事があげられる。また、さうでなければ「現存在」は轆轤首などに変化しない筈なのである。しかし、その悪癖による「現存在」が蒙る損失を補って余りある魅力が、轆轤首がぐっと首を伸ばして仮想空間を行き交ふ事には意味がある筈なのである。
其処は、つまり、仮想空間は虚実が錯綜してゐる事により、「現存在」が自由を獲得したのかもしれず、「現存在」がMonitor画面を前に、轆轤首となる事で、轆轤首は仮想空間において仮想=自由を存分に味はふ事が出来、換言すれば、頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》の或る一部分を極大に拡大させる事で、恰も己の頭蓋内の闇を自在に弄(まさぐ)って、《五蘊場》で遊行する事が可能になったかの如くに、つまり、意識がITによって此の世の広さと等価となったかの如き錯覚が味はへる愉悦に、轆轤首は、それに耽溺する自由に酔ひ痴れる事で、己に閉ぢ籠り、そして、奇妙な事にIT社会では己に閉ぢ籠もれば、閉ぢ籠る程に外部との《接続》が出来る不思議に魅せられて、また、IT社会は尚更「孤」なる事の自由を「現存在」の欲望の赴くままに肥大化される事に為るのは、IT社会の必然と言へるのである。といふのも、現代では、「現存在」の欲望を商品化し、その流通による経済活動で「現存在」の食ひ扶持が得られる仕組みになってゐて、「現存在」が普通に此の世で暮らせば「現存在」の周囲は、己の欲望が商品となった物質で出来た機器といふ名の「現存在」の奴隷で囲まれ、何の事はない、轆轤首と化した「現存在」は動く必然が殆どなくなった故に、己の周りを己の欲望が商品となった《もの》を買ひ貪る事で埋め尽くし、さうして、益益、動く必要がなくなった事により、轆轤首の首ばかりがぐんぐんと伸びるばかりなのであった。
これか現代のブルジョア――現代の労働者は近代のブルジョア以上の生活をしてゐて、また、奴隷、つまり、家電などの機器群に囲まれてゐる故に近代のブルジョア以上のブルジョアに入る――の蓑(みの)虫(むし)化した状況なのである。
それ故に、内部と外部はその境目を失って、渾沌とした世界が出現してゐるのである。此の渾沌とした仮想空間こそが「現存在」の望む世界観の行き着く果てで、それが実現してしまへば、何の事はない、《吾》の消滅と肥大といふ相矛盾する事が一緒くたに起こる無境界化世界の出現で、それは、頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》の或る一部分を極端に肥大化する事で成り立つ仮初の《吾》でしかないが、だからこそ轆轤首と化した「現存在」はその仮初に一瞬花火の如く煌めく《吾》となって、存分に自由を満喫したいに違ひないのだ。その仮初の《吾》の追求こそが、ITによる仮想空間の出現の呼び水に違ひなく、それにいち早く適応したのが轆轤首と化した「現存在」なのである。
さうすると、仮想空間に《接続》しない「現存在」は《接続》出来る「現存在」に蔑まされる事しばしばなのであるが、しかし、その立場は存在論的に見れば、仮想空間に《接続》出来ない「現存在」こそ「まとも」で、仮想空間に《接続》出来る「現存在」は、既に「現存在」に非ず、轆轤首の化け物でしかなく、轆轤首と化した化け物に為る事で「現存在」は、生き物としての進化する《存在》の変態をみすみす逃してゐる《存在》かもしれず、仮に、生物として《存在》の進化を仮想空間に適応する事にすり替へた轆轤首は、飯を喰らひ排泄する以外、全身全霊を仮想空間に《接続》して、歪に肥大化した《五蘊場》ならぬ《四蘊場》に自由を見てしまった浪漫主義者のなれの果てなのかもしれぬのである。
さて、「轆轤首は愉悦なるか?」と、自問自答することらになるのであるが、それに対する私の答へは楽しくもあり虚しくもあるといふ在り来たりの答へでしかないのである。轆轤首に為る事に愉悦がなければ、「現存在」は轆轤首に化ける筈もなく、さて、其処で大いに問題となるのは、己が轆轤首に変態してゐる自覚があるのかどうかであるやうな気がしないではなかった。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪