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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 さて、其処で《杳体》と言ふ私個人のドクサ(臆見)を引っ張り出すと、この《杳体》といふ《存在》の有様は《存在》に対する或る漠とした杳として知れぬ観念として、それは永劫といふ相の下での無理矢理に導き出した極限としての極値である事に気付く筈である。つまり、この事は何れの《存在》も最終的には杳として知れぬ《存在》、つまり、《杳体》へと解体する外ないのである。そして、「現存在」は、何時の時も、《存在》が《杳体》へと相転移するその中途過程を担ふべき《存在》として絶えず《現在》に《存在》する事を強要されるのである。現存するとは、《未来》と《過去》とが鬩ぎ合ひ、犇めき合ひながらの奔流に生じる羸弱な、そして微少な時空間のカルマン渦に違ひなく、さうしてこの泡沫の《存在》は永劫の相の下では何《もの》もその《存在》が解体されずにはをれず、また、それは杳として知れぬ《杳体》へと相転移するのである。これは例へば、《死》の別称でしかないといふ事も成立可能であるが、《生》若しくは《現在》に《存在》する《もの》にとって《死》は、その《もの》が《生》である限り未知な《もの》のままで、《死》とは徹頭徹尾《他》の《もの》でしかないのである。そして、《現在》において、時空間とは、杳として知れぬ何か未知の領域を必ず含有した何かとして《存在》、或るひは認識されてをり、そのやうにしか《世界》を知り得ぬ「現存在」は、《世界》が未知なる《もの》であるから《生》をわくわくとして生きるといふ一面がなくもないのである。《世界》が未知である故に《吾》はあれやこれやと思考するのであり、《五蘊場》の様相を激変させるのが《世界》の不可思議性なのである。仮令、人類が此の世を全的に微塵の隙間もなく理解出来たとして、つまり、《神》の「癖」を知り尽くし、さうして《神》を撲滅する事に完璧に成功したとして、それに歓喜するのは、論理的に合理的に《世界》のからくりを実証せしめたその張本人でしかなく、また、それを理解出来る《他》は限られた《もの》のみなのである。何《もの》も例へば「宇宙」の成り立ちに関して微塵の狂ひもなく、論理付けしてそれを実証出来た処で、それを言表するには専門用語を駆使しなくては、二進も三進もゆかない筈である。そのことは、現時点においても一般相対性理論や量子力学が万人に理解出来ないやうに、仮に《世界》の秘密が解き明かされた処で、その証明を理解出来るのは、多数派かと言へば、どう考へても少数派でしかなく、限られた専門家にしか理解不能な《もの》に為らざるを得ぬのである。つまり、現時点でも一般相対性理論や量子力学と言ふ此の世を物理といふ物差しで理解するべく、その材料は準備万端に揃ってゐるにも拘はらずに《世界認識》に関して、十人十色の状態を今尚拭い切れぬのは、此の世の摂理と言ふものはそれ程に語るに難しい《もの》で、結局、理論が理解できぬ多数の「現存在」は、経験値でのみで世知辛い此の世を生き抜いて尚、歓喜にある事が可能なのである。つまり、何とも理解不能な《世界》であっても、生き抜いたといふ事で、「現存在」は多分に満足なのである。つまり、多くの《吾》共にとってこの《世界》が未知なる《もの》といふ事は安寧を齎す根拠に十分為り得るのである。つまり、《世界》を隈なく認識出来たとして、《吾》の様相は変化するのか、といふ問ひにぶち当たる事になるのである。この問ひに対する答へとして当然と思はれるのは、どれ程此の《世界》が理解出来得たとしても《吾》の苦悩は軽減されない、といふ事である。今後、如何に文明が発展を極め、《吾》にとって《便利》になった処で、依然として《世界》も《吾》も杳として知れぬ《存在》として《吾》の実存を脅かし、また、立ちはだかり、さうして、そんな《吾》と《世界》の関係の中で、《吾》は、《生》へと縋り付く確率が高いに違ひなく、《世界》が隈なく知り得た故に自死する《もの》が出現した処で、それはそれとして《生》を選択し続ける《存在》にとっては、此の世を《生》き抜く事に、つまり、依然として《存在》する事に飽きる事なく、否、《生》に夢中になり、そして、無我夢中の中で、あっけなく《死》してゆくのである。そんな《存在》にとって《杳体》とは箸にも棒にも掛からぬ《もの》として、つまり、《存在》にとって此の世が未知である事故に、また、謎故に此の世に《存在》する森羅万象を《存在》に繋ぎ止めるその大いなる根拠となり、つまり、《杳体》といふ摩訶不思議な《存在》をでっち上げる事でのみ、此の世に《生》きる事は善な《もの》として《吾》に作用するのは、否定出来ぬの事なのである。