審問官第三章「轆轤首」
つまり、何れの《吾》も成仏する事はなく、《死》しても尚、この地を彷徨ふのである。それが《吾》の此の世に対しての最低限の礼儀であり、また、中有に彷徨ふばかりの、轆轤首の首をぶった切り、《死》した吾が肉体から発したに違ひない《吾》といふ腐敗Gasと遅遅と時間が進まない石ころと化した《吾》が、渦動し、ずっとそのままの状態であり続ける《吾》未然の《吾》が、果たして、何億年と言ふ時間の長さで凝視し続ければ、其処にはある変化があるかもしれないといふのは余りにも楽観的に過ぎる見方であって、それを打ち砕くには十分な根拠として、《吾》の狎れの果ては《吾》でしかないことにより、自明なのである。それ故に、何億年という星霜でも渦動するのみの《吾》には何の変化もなく、この石ころの《吾》の周りを巡回するその渦状の《吾》は無意識的にも意識的にも『神の一撃』を待ち詫びてゐるのである。《吾》の出現には、《吾》のみの力学では此の世に出現する蓋然性は零に等しく、《吾》は絶えず『神の一撃』を鶴首の如く待ち続け、否、轆轤首として待ち侘びて、さうして《吾》の首は伸びるに伸び切るのであった。
石ころの《吾》の周りを《吾》の腐敗Gasが渦動する《吾》は、つまり、進退窮まった状態とも言ひ得るのである。《吾》を追ひ詰め続けた果ては、この渦動する《吾》が《五蘊場》にどかんと居座るのである。さうして、《吾》は《吾》に対してああでもないかうでもない、と自発的な渦動する《吾》の瓦解を願って已まないのであるが、哀しい哉、《吾》にはそんな力は備はってゐないのである。幾ら《吾》がのた打ち回らうが、最早渦動する《吾》に至ってしまった《吾》は、微動だにしないのである。自然界に起きた素粒子の「対称性の自発的な破れ」を、渦動する《吾》に期待しても無駄なのである。《吾》にはオートポイエーシス(自己作成)する力は、元元備はってゐないのは、《吾》がどう足掻かうが結局《吾》にしか為れぬ事で自明である。さて、それでは、そもそも《吾》は《吾》以外の何かに為らうとする意思を持ってゐるのであらうか。多分、此の世を生き延びて来た事からしてさう看做しても構はぬ筈である。が、しかし、《吾》はどう足掻かうが、《吾》は《吾》にしか為れぬのである。これを絶望と言はずして、何を絶望と言ふのであらうか。
――だが、《吾》は《世界》を弄繰り回せるぜ。
――しかし、それ故に《吾》は自滅の道を歩んでゐるかもしれぬではないか!
――だからかうして、《吾》は《世界》を弄繰り回す事は已められぬのさ。《吾》が変はれぬのであれば、《世界》を変へてしまへ、といふ実に安直な愚行で「脳内世界」を外在化させてゐる。つまり……。
――つまり?
――つまり、外圧には微動だにしない《五蘊場》で渦動を続ける《吾》は、もしかすると進化を已めてしまった進化の極致なのかもしれぬのさ。
――進化の極致? はっ、嗤わせないで呉れないかね!
――しかし、現に《吾》は、つまり、「現存在」としての《吾》は、「脳内世界」を辺り構はず外在化させていったのは間違ひない。
と、間歇的に《吾》が《五蘊場》の闇から容喙するのであるが、しかし、この自問自答といふ《もの》は、《世界》が《吾》に埋め込んだ時限爆弾なのかもしれぬのである。「《吾》は五分と同じ事を思考できない」、とは埴谷雄高の言であるが、思考は、乱数的に彼方此方とその志向の向きを変へて、同時多発的に幾つもの思考が《五蘊場》で重ね合ってゐるのが《吾》である。その点では《吾》もまた、波動の一種に違ひなく、つまり、量子力学の言ふ処の「重ね合はせ」を絶えず行ってをり、《吾》の意思統一、若しくは統覚は見果てぬ夢の如くに、はたまた邯鄲の夢の如くに明かな誤謬に違ひないのである。それ故に、この《吾》には絶えず曖昧模糊として、把捉出来かねる《吾》、つまり、《吾》が想定した《吾》から絶えず摂動するのが、これまた、《吾》の宿命なのである。
逃げる《吾》とそれを追ひかける《吾》の何時果てるとも知れぬ永劫の鬼ごっこは、《吾》が《一》とも《〇》とも為れぬ故に続く事になるのであった。しかし、これは徹頭徹尾自作自演の猿芝居でしかなく、猿芝居故に《吾》は臆面もなく自演出来るのである。つまり、《吾》は徹頭徹尾《吾》の擬態に過ぎず、何かに喰はれぬやうに《世界》に阿(おもね)る事で、生き延びて来たのである。ところが、何時かは自作自演の猿芝居は《吾》の内部告発により、終幕を迎へること必定で、つまり、《吾》が《吾》を騙し続ける事は、この羸弱な《吾》には端から出来っこないのである。《吾》を偽る《吾》は直におくびを出さずば、《吾》は《吾》に対して我慢がならぬのである。《吾》とは「先験的」にさうした《存在》なのである。そこで、《吾》は、《吾》に対して乾坤一擲の大博打を打つ外ないのが実態で、その博打は《吾》の存続を賭けた一大事なのである。つまり、《吾》は《吾》の化けの皮を剝す事に夢中になり、さうして《吾》暴きが彼方此方で執り行はれる様相を呈し、然しながら、《吾》が一皮《吾》の化けの皮を剝いだ処で、更なる《吾》の化けの皮が現はれるのが実相で、即ち、《吾》の玉葱の如き多層構造は、全く以ってFractalな造形をした何かであり、《吾》が《吾》の化けの皮を幾ら剝いだ処で、其処には泰然自若とした次の《吾》の化けの皮が現前するのである。さうして、
――くっくっくっくっ。
と、《吾》に対して不敵な嗤ひをその面に浮かべながら、《吾》を絶えず挑発し続けるのであった。さうなると此方は完全にお手上げ状態で、《吾》に対して、これ以上は追はぬといふ白旗を挙げて、不敵な嗤ひを化けの皮に浮かべる《吾》から退散するのであるが、今度は、鬼が入れ替はり、《吾》が化けの皮を晒す《吾》に執拗に追はれる羽目になる事は自明の理なのである。それ故に、《吾》は化けの皮を晒す《吾》から逃げる事を断念し、その《吾》に対して観念するのである。さうして、《吾》と対峙する化けの皮を被った《吾》はどちらの《吾》が「本当」の《吾》かの区別が出来なくなり、《吾》は二進も三進もゆかずに、唯唯、その場に佇立しては、果せる哉、天に向かって憤懣の言葉を喚き散らす外ないのである。つまり、前述したやうに《吾》の《五蘊場》には幾つかの思考が輻輳してをり、《吾》は此の《吾》であり、あの《吾》でもあり得、また、実際、そのやうにしか《吾》は此の世に《存在》しない筈なのである。つまり、《吾》はこれもあれも《吾》なのである。かうして、《吾》は《吾》の境を見失ひ、次第に《吾》は溶解を始めて、《世界》に溶け出すのである。さうなると、《吾》は恍惚の態で、白昼夢へと飛び込んだ如くに《吾》を見失ふのである。さうして初めて《吾》は《吾》に対する郷愁を覚えるのであるが、既に時遅く、《吾》は《世界》にまんまと騙されたのである。
――あっはっはっはっ。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪