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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 確かに《吾》による《吾》の全顚覆はあり得る筈もなく、《吾》は、《吾》なる《もの》と《吾》ならぬ《もの》の間で常に摂動してゆく《吾》を追いかける鬼ごっこに現を抜かしては、余りにも馬鹿げた『《吾》の全顚覆』を夢見るのであるが、しかし、それは大概の「現存在」にとっては蚊に刺されたかの如くに心に多少の痒みを催す《もの》でしかないのである。さうとは言へ、中には、その摂動する《吾》とのそのずれに底無しの深淵を見てしまって、最早、一歩たりとも其処から身動きが取れなくなって仕舞ひ、遂にはその深淵の虜になってしまって、その深淵から絶えず漏れ聞こえてくる《吾》に対する呪詛の呻き声の言葉の数数に心を完全に打たれて奇妙な共鳴を起こす《吾》の打ち震へる深奥をどうする事も最早不可能の態で、そんな《吾》は、一一その呻き声に感銘を受け、それはさながら、雷に打たれたがの如き衝撃をもって《吾》の内奥に棲む《吾》といふ名の何かと共鳴を起こし、しかも、尚更にこの《吾》を顚覆させねばならぬとの苦悶を深め、さうして、《吾》は《五蘊場》に出現する事になる《異形の吾》を次次と惨殺しては、
――これは違ふ!
 と、《異形の吾》を殺す度毎に嘆くのであった。つまり、それは《吾》の思索の浅薄さしか物語ってをらず、その己の思索の浅薄さに比例するやうにして《異形の吾》は《五蘊場》にその醜い姿を現はし、《異形の吾》は泥人形か木偶の坊のやうな余りにも低能かつ下等な御姿で現はれては、《神》との比較において「現存在」を曲がりなりにもこの世に出現させた《神》の見事な手捌きには未来永劫に手にする事が出来ぬ己の無力感に苛まれながらも《吾》は涙を流しながら次次と現はれる《異形の吾》を惨殺する外なかったのである。つまり、《吾》とは「先験的」に哀れな《存在》としてしか《吾》には現はれないのである。しかし、其処で自己愛に堪へ切れずに自慰すると、たちまち、その自慰行為の中毒となり、自慰する事で哀しい《存在》である《吾》の置かれた位置を一瞬でも忘れるやうにして、《吾》は此の世に屹立してしまふのであった。それはあまりにも無防備な出で立ちであり、そのやうな《吾》は摂動する《吾》とのずれに開いた底無しの深淵に転げ落ち、しかし、それが落下だとは全く気付かず、自由落下してゐる時の浮遊感として飛翔の心像の中に哀れにもひっそりと《存在》する《吾》を見つけては、それが《異形の吾》とは全く気付かずに自己は自己に同一してゐるかのやうな幻想の上で胡坐を舁く《吾》を見出だすのが関の山なのであった。
 だが、しかし、《吾》はそんな《吾》に対して途轍もない居心地の悪さを覚え、さうなると、最早、一時も《吾》である事が我慢がならぬ事態へと移行するのは必然なのであった。だからと言って《吾》に為す術はなく、只管、《吾》が《吾》である事に我慢する事に終始する事もまた、必然で、《吾》は《吾》なる事に断念する事でやうやっと《吾》は《吾》である事を受け容れるのである。これを悲劇と言はずして何を悲劇と言へようか。《吾》は《吾》である事が既に悲劇であるといふ皮肉。しかも、これは悲劇でありながら、多分に喜劇の要素を多く含んだ《もの》なのも確かなのである。つまり、この《吾》の人生における振舞ひは此の世にまたとない喜劇へと難なく変はるのである。この悲喜劇をして、《吾》は《吾》に対して道化師を演じて見せて、絶えず《吾》が《吾》である事を思惟する事態――これは余りに深刻な事態なのである――を回避するのであった。しかし、そんな状態も長続きする筈もなく、多分、誰しも、否、何《もの》も《吾》なる《もの》の瓦解を経験してゐる筈なのである。そして、それに対して大概の《存在》は無関心を装ひつつ、次第に《吾》に対して不感症になってゆくのが常なのであるが、中には《吾》が《吾》である事をどうしても受け容れられずに《吾》が《吾》に躓く《存在》がゐるのであるが、しかし、だからと言って、《吾》は既に何に対して呪詛してゐるのかも解からずに、只管、此の世を呪ふのである。その狎れの果てが轆轤首なのである。最早、歩く事すら出来ない轆轤首として此の世の不条理に順応してみせた轆轤首の《吾》は、仕舞ひには首を伸ばす事すら面倒臭くなって、やがては轆轤首の首を自らの手でぶった切り、さうして、首と切り離されし肉体を自らの手で撲殺せずにはゐられぬ哀しき《存在》として、《吾》は此の世に《存在》するのである。それでは何故に《吾》は《吾》の首のみ残して肉体を撲殺しなければならぬのであるか。その答へは簡単な事なのである。《吾》もまた動物だからである。動物故に「心」、若しくは「意識」を自覚してしまった故に、首と胴体とが乖離を始め、仕舞ひには《吾》は、この余りに不合理な肉体を《吾》から切り離して、此の世から抹殺せずには気が収まらぬのである。これは、《世界》が《吾》に強要する《もの》で、誰もが己を轆轤首として意識し、更に《世界》に順応するべく首をぶった切るのである。さうして、《吾》の不合理なる肉体を自らの肉体を自らの手で殴り殺すのだ。さうして、《吾》にとっては最早不合理でしかなくなってしまった肉体の《存在》を此の世から抹消するのである。さうして、一見この《世界》を自由に飛び回ってゐるかの如き錯覚、否、誤謬の中で《吾》は遂に《吾》を見失ふのである。これは、しかし、《吾》が望んでゐる宿願に違ひなく、《吾》は《吾》といふ呪縛から遁れられる筈なのであるが、吾(わ)が肉体を撲殺してしまったことで、尚更我執に囚はれては《吾》に拘泥するのである。そして、そんな《吾》は次第に腐敗してゆき、《吾》は何時しか、腐敗Gasに変化してゐて、尚且、石ころの《吾》が《五蘊場》に転がってゐるのである。そして、その腐敗Gasは石ころの《吾》を中心に経巡り始め、渦動するのである。それが《吾》の「生まれ変はり」の儀式であり、その時、《吾》は《吾》に対するささやかな祝祭を催すのであるが、しかし、さうした状況下にある《吾》はちっとも《吾》が実在する《もの》として甦る事はなく、只管、石ころの《吾》の周りを腐敗Gasが渦動し続けるのである。何故ならば、この渦動する《吾》未然の《存在》には、決定的な事が欠落してゐるのである。それは、腐敗Gasが凝結する核が、何時まで経っても出現しないからなのである。しかし、それは、至極当然の事で、《吾》は《吾》の肉体を撲殺し、此の世から抹消させてしまった故に、石ころの《吾》の周りを経巡る腐敗Gasとしての《吾》は、終ぞ《吾》が雪の結晶の如くFractalに成長しゆく《吾》といふ何《もの》にも代へ難い核を失ひ、《吾》を「新たに生まれ変はらせる」その核の不在は、何時まで経っても《吾》を《吾》未然なままに留まらせる原因になってしまうふのである。ところが、それに気付いた処で、《吾》未然の《吾》為らざる《吾》には遅きに失してゐて、未来永劫《吾》未然の《吾》為れざる《吾》が中有を彷徨ふ事になるのであった。