審問官第三章「轆轤首」
とはいへ、《吾》の誕生において「現存在」は何の原罪も背負ってゐないと思へるのであるが、思春期の或る日を境にして、「現存在」は己に対して唯唯嫌悪感ばかりが湧き立つ事態に無理矢理にも抛り込まれるのである。その理由は、多分、「現存在」が《死》すまで、否、《死》しても尚、不可解なままに違ひなく、《吾》は《吾》の中に芽生えてしまって、その《存在》を《異形の吾》としか呼びやうがない《もの》として苦悶し呻吟しながら、その《存在》を承認する外なく、さうすると、《吾》とは分裂する《もの》の総称でしかないといふ事になるのである。つまり、《吾》は受精卵が細胞分裂をする如くに分裂を繰り返し、例へば、一人の人間が約六十兆個の細胞で成り立ってゐるが如くに、それを無理矢理頭蓋内の闇たる《五蘊場》に《存在》するであらう《吾》といふ《存在》にそのまま当て嵌めるとするならば、《五蘊場》の《吾》、若しくは《異形の吾》もまた、六十兆個の《吾》により出来てゐて、その《吾》が変幻自在にその姿形を変へて、《吾》の《五蘊場》に出現すると看做せなくもないのである。
実際、《吾》といふ《もの》は、変幻自在でなくては此の世で生存する事は不可能で、時に暴君と化す《自然》の中で生き延びるには、《吾》は、先人達から脈脈と受け継がれてきた智慧をして、その荒ぶる《世界》に対峙する筈なのである。その時、「現存在」は自己保持する為に絶対的な《過去》の遺物でしかない先達の智慧に縋り付く事でやうやっと時間が《過去》から《未来》へとその流れを反転させる激動の中においても尚、揉みくちゃにされながらも《個時空》といふ小さな小さな小さな時空間のカルマン渦を消滅させる事なく、渦は渦として存続させる筈なのである。さうでなければ、生物はこれ程までに多様に《存在》する筈はなく、然しながら、「現存在」のみ先達の知恵を蔑ろにした故に疑心暗鬼に陥り、一方で、その先達の知恵を誇大に解釈し、一方では過小評価するといふ紊乱と傲岸不遜の中で『《吾》ありき』などと嘯きながら、此の世に存続できているのは偏に《現在》を《生》きている「現存在」の詰まる所は浅墓な智慧でしかないのけれども、その智慧による《もの》と胸を張ってゐるのであるが、その姿ほど醜悪な姿はないのである。《現在》といふ皮袋たる《吾》においてのみ反転する《過去》と《未来》の時間の流れに《吾》は翻弄されながら、もう闇中に消え入りそうな《吾》が、その防塁としていた《吾》の《五蘊場》が既に解明され、つまりは謎が解かれて《五蘊場》は無惨にも崩壊するといふ危ふい状態に置かれてゐる事に気付いている《吾》は、それを素知らぬ顔で厚顔無恥にもその因を《世界》に向け、《世界》の改造を何の疚しさも感じずに行ってしまったのである。つまり、脳絶対主義の《世界》を出現させてしまったのである。
さて、さうなるともう手遅れなのかもしれぬが、これまでは手に負へぬものであった《自然》の脅威に対して現代文明はそれを乗り越えたといふ錯覚の中に一時期陥り、既に《楽》を知ってしまった「現存在」はもう後戻り出来ずに、最近頓に増へた傍若無人な《自然》の荒ぶる振舞ひを更なる文明の進化によって鎮めるといふ超絶技巧な離れ業をやらうとしてゐるのである。このやうな生物の存続の危機に対しての大いなる矛盾を抱える事になった「現存在」は、「えいっ」とばかりにもんどりうちながら未来に突き進む外ないと観念し、悪足掻きしながらも《吾》は大いなる悔悟の中に《存在》するのも確かで、そして、《吾》はそれ故にこれまで味はった事がない途轍もない屈辱の中でもがき苦しみながら《過去》と《未来》が反転する《現在》を《生》きるといふ《吾》のその余りの浅薄な《存在》の重さを味はひ尽くさねばならぬのであった。つまり、太古よりこの方唱へ続けられて来た芥子粒の如くにしか「現存在」の命の重みはないといふ事を心底味はふしかなかったのである。
――ぶはっはっはっ! よく臆面もなく芥子粒などと言へるもんだぜ。恥ずかしくないのかね? それこそ、太古の昔より言ひ続けられて来た文言ではないかね? へっ。余りに陳腐で嗤ふしかないぜ。ちぇっ。
――ふん。そんな事は言はれなくとも解かり切った事さ。勝手に嗤ひたければ嗤ふがいい。しかし、《吾》なる《もの》の《存在》は己では避けようがない《もの》として既に《存在》しちまってゐる。さうして、《吾》は《吾》を受肉してゆくのさ。
そもそも受肉とは何なのであらうか。《吾》は《吾》を一生賭けて受け容れてゆく《存在》なのであらうか。仮にさうだとすると、《吾》は相当な白痴といふ事になるが、これ如何、などと己に対して余りにも古風な疑問を何か最先端の問題であるかのやうに装ひながら論(あげつら)ってみ、しかしそれは何の事はない、古人の言葉の重さを今更ながら味はふ「生き直し」を、つまり、永劫回帰の全き中を闊歩するかの如く《生》を繋げるやうにして、《吾》といふ《もの》は、何《もの》をも《存在》たらしめてしまふその端緒でしかないに違ひないと思ふしかなかったのであった。
さて、《吾》が《吾》であると気付く時のその刹那の悲劇は見るも無惨な《もの》であった筈である。或る日、それは忽然と《吾》にやって来るのだ。それまで《吾》の思考の片隅にも《存在》してゐる素振りさへ見せなかった《吾》といふ概念に《吾》は気付くのである。その時の《吾》の狼狽ぶりは、見てをれぬ程に醜い《もの》な筈なのである。さうでなければ、《吾》は《吾》を欺いてあかんべえをしているに違ひないのである。
――「私」は《吾》?
と、不意に《吾》の《五蘊場》に立ち上ったその《吾》といふ思ひに戸惑ふ《吾》は、その時を境に《吾》に首ったけになるのである。最早、《吾》が四六時中考へるのは、全てこの《吾》の事であり、また、《吾》に関係した《もの》なのでしかないのである。しかし、それでも尚、正気の《吾》は、孤軍奮闘するかのやうに《吾》に対して懐疑の目を向け、しかも、不思議なことに《吾》に首ったけな《吾》と《吾》に懐疑の目を向ける《吾》は「私」においては共存してゐて、「私」は《吾》なる《もの》と《吾》ならぬ《もの》の間を揺れ動きながら、常に《吾》から摂動してゆく《吾》を追ひかけるのである。さうかうしている内に《吾》はそんなどっちつかずの《吾》に痺れを切らして、その《吾》の有様に大いなる疑問を抱き、其処で《吾》は《吾》の全顚覆を企てるやうになる事が、《吾》の健全な成長過程であるに違ひないのである。
――へっ、《吾》の全顚覆? そんな事は《吾》が可愛くて仕方がない《吾》にとっては土台、無理な話で、そんな不可能事に現を抜かす《吾》の行き着く先は大概《吾》といふ《もの》の思弁的な遊行でしかなく、それは、詰まる所、暇潰しでしかないぜ。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪