審問官第三章「轆轤首」
と、何か此の世の秘密を知ったかの如くに恥知らずにも自己肯定し、さうして我が物顔で此の世を跋扈するのであるが、否、首のみぬらぬらと伸ばした轆轤首として《存在》するのであったが、その《存在》の根拠と言へば、唯単に『己は唯一無二の《存在》に違ひない』といふ余りに拙い根拠しかないのである。むしろ、「現存在」が此の世に《存在》する時に猪の一番にすべき事は徹底的に自己否定する事であり、それは、《死者》達に対する感謝であり、此の世の至る所に《存在》するであらう神神達に対する礼であり、悪魔を手玉に取る狡猾さを兼ね備へた、つまり、此の世は一寸先は闇といふ事を知り尽くした上での或る達観にも似た有様に違ひないのである。断言するが「現存在」は宇宙史上一度も此の世の王になった事はなく、「現存在」は徹底して此の世の下僕でしかなかったのである。然しながら、《世界》と「現存在」の帰属を問題にする限り、どちらが上位であるのかといふ権力闘争に終始し、仕舞ひにはそれに夢中になり、最早、傍から見れば如何にも下らぬ事に現を抜かしてゐるだけに過ぎぬのであるが、当の「現存在」は、その《世界》の権力闘争が恰も「自由」の獲得であるかのやうな誤謬に陥り、遂には闘争する事自体が面白くて仕様がないといふ全く本末顚倒した事態に己の快楽を見出してしまって、それに惑溺するに違ひないのである。しかし、「現存在」の《世界》を統べるなどといふ如何にも傲慢な思考法は、本来であれば、産業革命以前にはなかったに違ひなく、「現存在」は蒸気機関といふ人力以上の「力」を手にしてしまった故に、《世界》、つまり、住環境の改変を何食はぬ顔で、それが恰も「自然」であるかの如くに行ひ、《世界》の王として「現存在」が此の世に屹立するといふ幻想に酩酊するのであるが、しかし、仮令、「現存在」が此の世の王として君臨したからといって何にも変はった《もの》はなく、独り自惚れた「現存在」のその《存在》の危ふさのみが一際際立つ事になるのである。つまり、《世界》は「現存在」が幾ら「自然環境」に手を加えようが、そんな事は眼中になく、例えば、天災としてそれは「現存在」に圧し掛かるのである。《世界》は眦一つ動かすことなく、「現存在」を殺すのである。その手捌きといったなら芸術的ですらあり、天災を前にして唯唯茫然自失の態で「現存在」ははっきりとした敗北感を心の底で味はひ尽くし、さうして、涙が枯れた面をくっと上げて、尚も《生》を、生き残ってしまった《もの》の宿命として、その《生》を生き直すのである。
さて、其処で問題となるのが、生き残った「現存在」の自虐であり、果たして己は生きてゐていいのであらうかといふ疑問、つまり、己の《存在》に対する疚しさに絶えず苛まれ、《死者》の眼前に引き出されては《死者》達の審問を受けるのを常としてゐる事なのである。また、さうでなければ、生き残った「現存在」は生くるに値しない筈で、如何に己が《死》に近しい《存在》であったかとの自問の中で泣き叫ぶのである。
――嗚呼、《吾》、何故に生くるに値するのか――。
と。さうする事で、生き残った「現存在」は己を自己愛撫しながら、懸命に生くるのである。さうでなければ、「現存在」は生くるに値せぬといふ断念が生じてゐる魂魄に正直になれず、あれ程までに執着してゐた《世界》の王の玉座になんぞ、見るにも値せぬ《存在》でしかない事を心底味はふのみなのである。
――それは《世界》と和睦するといふ事か?
と、《死者》達に問ひかけるのであるが、《世界》は沈黙したまま、何にも語らぬのである。
果たして「現存在」が《世界》と和睦する事は可能なのであらうか。仮に可能とすれば、それは如何なる状況で可能なのであらうか。
例へば、此の世の彼方此方に口を開けてゐる「パスカルの深淵」に「現存在」が自ら進んで落っこちればその時、《世界》と「現存在」の和睦は可能なのであらうか。そもそも「現存在」と《世界》の和睦は、其処に《死》が介在せねば不可能に違ひなく、仮にそれが可能であったとしても、「現存在」は《生者》である内は此の世の王として《世界》を牛耳りたいのが山山で、それ故に「現存在」は《世界》から浮いた《存在》として此の世を生きるのである。つまり、「現存在」が《生者》である限り、「現存在」と《世界》の和睦は夢物語に違ひなく、現実には「現存在」と《世界》の和睦は、不可能のやうに思へて仕方ないのである。それは 何故かと問はれれば、ドストエフスキイではないが、「現存在」は己の事を虱以下、若しくは南京虫以下の《存在》と看做してゐるのが真っ当な「現存在」の有様なのだが、それとは反対にこのやうな《世界》の中にあって、自己肯定出来てしまふ「現存在」といふものを思ふだけでかなり胸糞悪い《もの》で居心地が悪くて仕様がないのであったが、少なからぬ「現存在」は何の躊躇ひもなく自己肯定する事が可能なのであった。それは「現存在」の無知によるとしても、その傲慢さは許し難く、そもそも「現存在」は、此の世において、自己肯定出来る程に何か《存在》の中にあって一際際立つ何かを持っているのかといふ疑問にはたと思い至り、そこで思考停止したやうに《吾》は《世界》といふ《存在》を前にして屈辱のみを喚起する《存在》に堕すのが《自然》の道理なのである。この問ひに対する答へは至極簡単で、《存在》といふ言葉を前にしただけで如何なる《存在》も「平等」である筈で、独り「現存在」のみが優遇される理由なぞそもそもないのである。つまり、《吾》とは虱や南京虫に等しく、否、それ以下の《存在》である。といふのも虱や南京虫は《自然》の摂理に従って、決して其処から食み出ようなどとは微塵も考へることはなく、独り「現存在」のみが《世界》から食み出ることを欣求するのである。つまり、虱や南京虫は天命に逆らふといふやうな野望、若しくは欲望を持つ事はなく、只管に《自然》の摂理に従ひながら、その《生》を終へるのである。その点、「現存在」はじたばたと足掻くのである。己が何か偉大な《もの》であるかの如く振舞ひ、さうして、《存在》界の君主として君臨するかの如き大いなる野望、否、誤謬の中で狂ふのである。狂気のみが「現存在」を「現存在」たらしめる根拠に違ひなく、また、《世界》が行ふ傍若無人の仕打ちに対しても、独り狂気にのみ、「現存在」がその《存在》を《存在》たらしめてゐる事実に対する免罪符となるのであった。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪