審問官第三章「轆轤首」
と、吐き捨てて、その姿を虚空の中に消したのであるが、当の「私」はまるで白昼夢を見てゐるかの如く、己に対して舌打ちをするのであった。
――ちぇっ、忌忌しい! 何が《異形の吾》だ! 所詮、《吾》に過ぎぬではないか! 《吾》は《異形の吾》を自然に受け容れる度量が《吾》には本来備はってゐる筈で、それを先人は対自と、更には脱自と呼んで《異形の吾》も含有した上で《吾》は《吾》をして《吾》はちっぽけな《存在》に違ひないそれを《異形の吾》と名付けて邪険に扱ふ事に終始してゐるに過ぎぬではないか!
と「私」は己に罵詈雑言を浴びせたのである。しかし、その虚しさと言ったら、「私」の内界に一陣の風が吹き抜けるやうに《吾》の洞状の、つまり、《吾》の中身は空っぽといふ余りにお粗末な事態に嗤ふしかないのである。
――それで満足かね?
と、何処とも知れぬ《五蘊場》の闇に覆はれた眼前に拡がるは闇ばかりの虚空から、その虫唾が走る声で《吾》に問ふたのである。勿論「私」は己に罵詈雑言を浴びせた処で、何かが解消する筈もなく、尚更に憤懣のみが昂じるのみなのであったが、その瞋恚の炎が一度燃え上がると、最早、収拾は付かぬ事態に《吾》は何の事はない、周章狼狽するといふ醜態を晒すのであった。
――しまった!
と思った処で後の祭りで、それをしかと見たに違ひない《異形の吾》は、
――ぶはっはっはっ。
といふ哄笑を上げて嗤ふのであった。
――成程、非=排中律の止揚は卒倒ばかりではないな。瞋恚もまた、《吾》の非=排中律の止揚に違ひない。
――それは瞋恚に《吾》を見失ひ、ちぇっ、つまり、《吾》が《吾》に一致した一様相が瞋恚といふことかね?
――何ね。意識が感情に支配された時もまた、《吾》は《吾》であり、また、《吾》は《吾》でないといふ非=排中律を成し遂げてゐるのではないのかと思ってね。
――それを屁理屈といふのぢゃないかね?
――屁理屈で構はぬではないか。土台、《吾》が《吾》を問ふ事自体が屁理屈でしかないのだから。
――それは言ひっこなしだぜ。
――ふっ、ところで、お前は誰と話しているのかね?
――決まってゐるだらう、《吾》さ。
――ふむ。《吾》ね。
などと、下らぬ自問自答は、蜿蜒と続く事になるのだが、その問ひが建設的かと問へば、全く建設的ではなく、非建設的な自問自答を蜿蜒とする内に《吾》は憂鬱な気分に見舞はれるのである。だからと言って、《吾》は《吾》の観察者たる事を已める事は一時も出来ず、その内容が下らなければ下らない程に《吾》は《吾》との自問自答にのめり込むのが関の山なのであった。
其処で《吾》は己に問ふのである。
――さて、《吾》は《吾》である事を断念した時、一体全体《吾》には如何なる変容が起きるといふのだらうか?
確かに《吾》が《吾》である事を断念した場合、《吾》と名指す《もの》が既に《吾》でないといふ事象に戸惑ひながらも無私の境地へと達せられた《吾》は最早、《吾》と呼ぶ《もの》の声すら聞かずに、只管、《吾》の《五蘊場》を覆ひ尽くす闇へとずかずかと分け入り、また、底無し沼の様相を呈するその闇への落ち込みやうは、底無しにも拘らず、既に《吾》である事を已めた《吾》は、その闇に沈下してゆく《吾》に対して何ら恐怖心も湧き起こらずに、為すがままに《吾》を放置するのである。その放置された《吾》は勿論、首を自らぶった切った轆轤首の首の部分に違ひないのであるが、その首のみの、《吾》としか名指せぬ、既に《吾》を解脱してしまった《吾》を一言で言ひ表はせば、それは∞相を兼ね備へた《吾》といふ一様相に収束しての一相貌なのである、と言へなる筈なのである。そして、首のみの轆轤首の《吾》は、龍にも狡猾な蛇にも人魂にも変化可能で、その見え方は見る《もの》の心の有様次第なのである。つまり、無私といふ非=排中律を止揚した《吾》は、何様にも変化可能で、その見え方は《吾》以外の《もの》の心模様の射影でしかないのである。
そして、もう一つ、《吾》が《吾》を見失ふ様に感情の赴くままに《吾》を帰属させて、そこに「反省」「省察」の入り込める余地すらない状態の《吾》がある事は瞋恚について述べた通りであるが、その事は太古の人人にすら解かっていた事で、その一例に不動明王像として、また、十二神将像として神仏の緒様相として、彫像され、今に残されているのである。つまり、此の世には既に《吾》といふ《存在》の非=排中律を止揚した《存在》として、瞋恚を露はにした十二神将像や馥郁として嫋(たを)やかたる仏像として連綿と受け継いできたのであり、《吾》の無明といふ事象は現代に始まったことではなく、しかし、そのように「現代の闇」として捉へたがる俗物は傲慢でしかなく、敢へて言へばホモ・サピエンス、つまり、人間を馬鹿にしてゐるだけなのである。
現代に《生》を享けた《もの》が《存在》のHierarchy(ヒエラルキー)(位階)の頂点に君臨し、そいつは、つまり、「現存在」は《死者》を従へ、《神》を下僕と化し、悪魔に魂を売った《もの》として《存在》してゐるに過ぎぬのである。そのくせ、功徳を積んでゐると正邪が顚倒した《存在》を自覚しながらも「現存在」は此の世の王たらむとして《存在》する事を已めぬのである。むしろ、そいつは開き直って自らをメフィストフェレスの眷族でもあるかの如くに権勢を揮ふ事ばかりに現を抜かしては、
――此の世は高高、こんな《もの》。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪