審問官第三章「轆轤首」
と、ほとんど投げ遣りな自問自答にすべては語り尽くされてゐるのではあるが、然しながら、さうは言っても、やはり、《吾》は結局の処、《吾》を語る為に《存在》してゐるに違ひないと思ひ直して、自己満足する《吾》を、
――けっ、薄汚い性根を現はしやがって!
と罵るのであった。
さて、それでは《吾》として《異形の吾》が無数に《存在》する《もの》として語り出せば、その無数に《存在》する《吾》が全て轆轤首へと収束し、変態するに違ひないのである。《吾》を轆轤首といふ型枠に、つまり、皮袋に容れた《水》としてその変幻自在さを固着化した《存在》に過ぎぬと、∞柱《存在》する轆轤首たる《吾》を十把一絡げに看做してゐるに違ひないのであるが、しかし、《吾》とは、《吾》といふ《もの》へと収束する《もの》としか言ひ様がない、つまり、極論すれば、《吾》とは《吾》であり、また、《吾》ではない《異形の吾》であるといふ排中律に準じない《存在》が《吾》であるとしか言へぬのである。
《吾》が《吾》であり、そして、《吾》でないといふ非=排中律が《吾》を言ひ当てる最も的確なLogosならば、《世界》に《存在》する因果律も見直されるべき《もの》なのかもしれぬのである。《世界》において仮に因果律が不成立ならば、その因は全て《吾》が担ふ筈なのである。《吾》とは「距離」が厳然とある《世界》において《吾》のみ《現在》にあり、《吾》以外は全て《過去》か《未来》のどちらかと言へると先述したが、外界たる《世界》が、しかし、一度も《現在》であったためしがないかと問へば、《世界》は《吾》とは全く無関係な時間が流れてゐる筈で、《世界》は《世界》として自律してゐるに違ひないのである。それを仮に「宇宙史的時間の流れ」と言へば、《吾》の《生死》は、「宇宙史的時間の流れ」から見れば、ほんの一寸の出来事でしかなく、たまゆらに現出する《吾》といふ非=排中律なる《存在》は「宇宙史的時間の流れ」といふ悠久の時の《存在》の永劫回帰的な様相を其処に見出だす事で、徹底的に《世界》から孤立する《現在》であり続ける《吾》を断念するのである。絶えず《現在》であり続ける事を断念した《吾》とは、正覚せし《もの》とは違ふ《存在》に違ひなく、その《吾》のみ非=排中律の空理空論から遁れるのかもしれぬのである。それは詰まる所、《現在》である《吾》を追ひ、永劫に続く鬼ごっこを已めた《存在》に違ひなく、その途端に《吾》は《吾》から遁れる事を已めて、《吾》といふ何かが現前に現はれるに違ひないのだ。その為にも《吾》は出来得る限り早く、《吾》を追ふ矛盾を断念すれば、《吾》は、多分、何《もの》かに為り得、そして、それを以ってして『《吾》は《吾》だ!』と《五蘊場》に広がる渺茫たる虚空にその《吾》なる《もの》を彫り出す事が出来るのであり、断念しなければ、《吾》は何時迄経っても、《吾》は不確定な非=排中律、つまり、《吾》は《吾》であり、《吾》は《吾》でないといふ《現在》の有様に振り回される《存在》に堕すばかりなのである。何故にさうなるのかと言へば、そもそも《現在》は浮動な《もの》であり、それに対峙するには《吾》は肚を括らなければ、つまり、『《吾》、《吾》なる事を断念す』と浮動する《現在》における非=排中律的な有様にある《吾》との間に、程よい「距離」が出現するのである。つまり、《吾》と《異形の吾》との分離に成功すれば、《吾》とは、去来現を自在に行き交ふ解放感に包まれ、至福の時を堪能する筈なのである。
――へっ、それは丸っきし見当違ひだぜ!
と、不意に我慢出来ずに言挙げせし《吾》がゐたのであった。
――それは何故にかね?
――決まってゐるだらう? 《吾》は未来永劫に亙って《吾》である事を已められぬ筈だぜ。
――馬鹿な!
――しかし、《吾》とは、そもそも地獄の生き《もの》だらう?
と言挙げする《吾》の地獄といふ言葉を前にして、《吾》は口を噤むしかなかったのである。確かに《吾》は《現在》と言へば聞こえはいいが、それが地獄の一様相でしかない事を薄薄感じてゐた《吾》にとって、その《異形の吾》の言挙げに一瞬たぢろぎ、さうして不敵な笑みをその顔に浮かべるに違ひないのだ。
――つまり、地獄では《吾》は《吾》である事を已められぬ――か。
つまり、地獄の責苦を十二分に味はふには《吾》は絶えず《吾》でなければ《吾》をして地獄の責苦を受ける筈はなく、たまゆらでも《吾》が《吾》でなくなるとするならば、地獄を彷徨ふ《吾》にとっては、それは 卒倒を意味し、その無=自意識の状態である《吾》は、その時のみ《吾》である事に胡坐を舁くのである。卒倒が非=排中律の止揚であるならば《吾》は意識を失った無=自意識の境地にある――これをして《吾》は《吾》と呼べない――《異形の吾》が憑依した何かでしかないのである。その象徴が多重人格に違ひないのである。
次次と人格が変わりゆく多重人格者は、或る一人の人格が憑依すると、それまで確かにその多重人格者に憑り付いてゐた人格と断絶した別の人格がその相貌を現はすのであるが、その細細とした断片の寄せ集めでしかないその多重人格者の本当の人格は、誰かと問ふと、はたと答へに窮するに違ひないのである。何故ならば、当の本人が、つまり、多重人格者が一体誰なのか一向に判然としないからに外ならないのである。多重人格者においては全て現はれる人格がどれも「私」であり、さて、多重人格者の全ての人格が揃って『《吾》とは何ぞや』と自問自答を始めたと仮定した場合、多重人格者は、常人に比べてその『《吾》にぽっかりと開いた陥穽に深深と落ち込むかと言へば、決してそんな事はなく、多重人格者が全ての人格において『《吾》とは何ぞや』と自らに問ひを発してたとして、それは、そのいづれかの人格においても「私」の深化は望むべくもなく、多重人格者は『《吾》とは何ぞや』と問ふのみといふ無力感に苛まれるに違ひないのである。多重人格者において一所に留まり、一人として思索に耽るにはその持続力はそもそも不足してゐて、或る境地に達する前に別の人格に乗り移ってしまふに違ひないのである。つまり、全ては中途半端に終はってしまふ可能性が大で、多重人格とは《吾》からの逃避の一様相と看做せば、《吾》を追ひ込んだ挙句に辿り着いたのが仮に多重人格者へと為る端緒であると看做せなくもないのである。つまり、《吾》を突き詰めるとその結果の一様相が多重人格へと変化するものなのかもしれぬのである。
――多重人格とは《異形の吾》に《吾》が乗っ取られた一現象ではないのかね?
と、相変はらず《吾》を嘲る嗤ひをその口辺に浮かべながら《異形の吾》が《吾》に向かって言ふのであった。それこそ、自己矛盾した《吾》の有様を具(つぶさ)に物語るのっびきならぬ《吾》の事態なのであるが、それが何とももどかしくて《吾》は、
――ぶはっはっはっはっ。
と哄笑を発したのである。そして間髪を入れずに《異形の吾》は、
――果たしてお前は《吾》かね? 片腹が痛いわ。お前が《吾》? ふへっへっへっ。ちぇっ、悍ましい!
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪