審問官第三章「轆轤首」
さて、物質を完全な奴隷としたブルジョアとしての「現存在」が、色の欠けた《四蘊場》における自在感を手にした轆轤首と化した事に、当の「現存在」は余りに無頓着なのである。ところで、物質を「現存在」の完全なる奴隷として扱へるのは、しかし、少数派なのかもしれぬのである。物質の特性を熟知した上に職人技で、何とも名状し難い素晴らしい品物が出来上がる様は、未だに「現存在」は物質にも《神》が宿るのは当たり前で、職人は、物質で出来た品物に命を吹き込む尊ひ《存在》で、さうした職人の手で生まれ出た商品の殆どは、製品の生産に関はってゐた職人には感慨ひとしほの筈で、また、その製品を手にする消費者と呼ばれる「現存在」にとっては、羨望の的な筈である。また、一見、「現存在」は物質を完全な奴隷として扱ってゐると見える「現存在」の奴隷を、少しばかり注意してみれば、職人が生み出した極上の製品を愛して已まない「現存在」が《存在》するのもまた確かで、彼らは職人技に惚れ込んでゐるは間違ひないのである。
では、職人とは何なのか? これは一見簡単な問ひに思へるが、考へれば考へる程、難問なのである。唯、職人は素材に直に対峙する故に轆轤首ではない「現存在」である。そして、職人は、対峙した物質の「癖」を知り尽くすだけの智があり、また、それを知り得るだけの度量があり、さうして、素材の持つ特性を最大限に生かす製品を生み出すのが、職人の一面ではないだらうかとも思ふ。さうして、職人の手で生まれた《もの》は、極上の上質品であり、其処には美があるのだ。しかし、そんな品物は永らく冷遇され、職人にそれ相応の対価を支払ふ事を忌避し、また、職人の手になる商品は当然売れないのであり、職人に弟子入りする「現存在」も非常に少なく、いよいよ多くの職人技が途絶える危機的な状況に追ひ込まれてゐる職人技も少なくなく、物質に対峙する、つまり、その《存在》の物質に対する仕方は《存在》が身に付けるべき《存在》の「作法」であるが、生産者からも消費者からもその「作法」は消えようとしてゐるのである。これは、由由しき問題で、玉石混交は全て一律に同じ価格で売られ、買ふ方もまた、何が上質なのか全く解からなくなってゐるのである。と、ここで、品物の価値は誰が決めるといふ半畳が返ってくるのだが、「それは歴史だ」とだけ答へておく。そして、この美醜が解からぬ事は、間接的に「現存在」の轆轤首化に拍車をかけてゐるのは間違ひなく、つまり、轆轤首は、首をぐっと伸ばして見る《もの》も鑑識眼で判断する事を要求されるのであるが、上質の《もの》を知らない轆轤首は、見る《もの》全てがのっぺらぼうでその善し悪しが全く解からないのである。また、職人技が如何なく発揮された極上の品物は、売り場に置かれる事は少なく、その結果、轆轤首は、使ひ捨てを前提に《もの》を買ふのである。つまり、社会から《もの》に対する「拘り」が消えて、唯、Comsume(食ひ尽くす、焼尽する)する消費者(Consumer)が大量に生まれる事になったのである。そして、それは、轆轤首の首を伸ばす対象は品物その《もの》の善し悪しではなく、その品物に纏はる情報なのである。その傾向が顕著に表はれるのは食ひ物で、Television(テレビ)の画面の中にぐっと首を伸ばして聞き耳を立てて仕入れた情報を全的に信用し、Televisionで取り上げられた食物が放送後、即完売するといふ現象は既に日常茶飯事で轆轤首はTelevisionが生み出す現実味を多少多く帯びた仮想空間で、首をぐっと伸ばし、その対象物ではなく、それに付随する情報を喰らってゐるに過ぎないのである。これは食物に限られた事ではなく、あらゆる場面で幅を利かせ、轆轤首にとってMonitor画面は、情報を齎す、紙媒体の延長でしかなく、また、私は一切やらないのであるが、轆轤首は首を自在に伸ばしてGameで遊ぶ事で、轆轤首は、Gameを或る種の当事者的なる《もの》へと変質させて、轆轤首は最早首をぐっと伸ばしてゐる事が常態化して、その結果当然の事、「現存在」は、家に籠る事象が顕著になるのである。
轆轤首といふ常態当事者化は、然しながら、巨大地震などの自然災害に対しては、一方で大活躍し、一方では、大惨敗を喫したのである。
轆轤首に気楽に変化してゐた「現存在」は巨大地震に襲はれるや、直ぐ様伸びきった首をひょいっと引込め、「現存在」に戻る事を余儀なくされたのであるが、巨大地震でLifeline(ライフライン)を断たれた「現存在」は、携帯電話を一つの命綱として次次と自身でも情報を発信しては、また、次次と情報が更新される画面上の文字情報に釘付けであった筈で、一方でLifelineが壊滅し、また携帯電話やSmartphone(マートフォン)を持たず、更には電池がなくて使ひ《もの》に為らないRadioしかも持っていない私などは、唯、真っ暗な夜を何の情報もなく過ごしたのであるが、案外私のやうに過ごした人も少なくないのではないかと思われる。因みに私は病気故に車が運転できず、車さへ持ってをらずに、車についてゐるRadioは全く聞けない状況下にあったのである。それ以前に巨大地震による巨大津波を前に、画面情報は全く虚しいだけの《もの》でしかなく、情報とは当事者には殆ど役立たずな《もの》でしかなかった事が暴かれて、多くの人命が巨大津波で失われる事になったのである。その一因に情報による慢心があった事は否めないのである。
しかし、大勢の人が巨大地震の犠牲になってゐるので、私個人の意見を以て一般化する事には、巨大地震で亡くなった方への冒瀆でしかないので、それはやらないが、唯、本能で高台へ避難した人のみが生き残り、社会的な使命を全うして巨大津波に呑み込まれて命を失った人が大勢ゐた事もまた忘れてはならない。
巨大地震を経た今、ITのツールは二極化するのがほぼ見えて来たやうに思ふ。一つは、紙媒体を延長したもので、既にPersonal computerで重宝するのは、個人が発信するtwitterなどの文字情報である。巨大地震の際もこの個人が発信する情報が最も重宝した《もの》に違ひないのである。
かうなると、やはり、「現存在」は仮想空間へと首を伸ばし、仮想空間を自在に行き交ふ事は、既にその魅力を失ってゐて、敢へて言へば仮想空間はその使命を終へてをり、Monitorが最も活躍するのはtwiiterなどの現在を表出する文字情報へと仮想空間は移行して来てゐるのである。
一方で、映画に代表される動画もまた、人気のContents(コンテンツ)で、その場合、「現存在」は思ふ存分に己が轆轤首である事を満喫するのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪