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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 と答へる《吾》が、また、《存在》し、徹底して《吾》の自作自演の茶番劇が行はれる事になるのが関の山なのである。何故にかと言へば、《吾》なる《存在》その《もの》が既に茶番でしかなく、つまり、《吾》の端緒が既に茶番なのである。また、《吾》とはその様に滑稽でなければ此の世に《存在》出来る筈もなく、《吾》とは何処まで行っても、鉄面皮の如く面の皮が厚い、能の幕間に行はれる狂言の仕手=吾や太郎冠者=吾や次郎冠者=吾との狂言の寸劇にも為り得ぬ滑稽な茶番劇を《死》すまで続けるのである。
 何故に《吾》が《吾》語りを始めると何時も狂言めいた茶番劇にしか為り得ぬのか、と自嘲しながらも、その茶番劇が《生》をも奪ふ絶望を含意した悲劇へとするりと身を躱すその早変わりの《吾》の有様に、或る種の驚嘆を覚えつつ、呆然と渺茫たる《五蘊場》の虚空を凝視する外ないのである。
――これが、若しや《吾》の人生の縮図?
 と、初めは何も《存在》してゐない虚空を凝視しながら自問する《吾》にまたぞろ罵詈雑言を浴びせる《吾》が出現するのである。
――それは何故にか?
 と、再び自問する《吾》は、不意にそれが《吾》を捨て去る方便として、もってこいの《もの》として、再び自嘲する《吾》の出現を認識するのであるが、さうして順繰りに《吾》を《五蘊場》に出現させつつ、其処に或る安寧を見出だすに違ひないのである。さもなければ、《吾》が《吾》を使ひ捨てられる筈もなく、そもそも《吾》は未練たらたらに《吾》に執着する筈なのであるが、それを敢へて行ふ事無く、《吾》が凝視する虚空に響き渡る哄笑は起きる筈もないのである。
――ぶはっはっはっ。
 さうして《吾》を見て嗤ひ飛ばす《吾》の変幻自在な有様に心躍らせるのである。
――何たる事か!
 それが《吾》の《吾》に対する鬼ごっこを飽きさせない秘訣のやうにも思ひ看做す《吾》にとって其処に欺瞞を見出してしまふ《吾》は、尚も《吾》を駆逐する事に精を出し、何としても《吾》に《異形の吾》を見出だす迄、已められぬのである。しかし、仮令、《吾》に《異形の吾》を見出だした処で、所詮は、それすらをも使ひ古すこの《吾》にとっては単なる一興にしかならずに、《吾》はその《異形の吾》を捨て去って《五蘊場》の闇を分け入るのである。
――一寸先は闇。
 と念仏の如くにそれを誦へながら、不意に姿を現はす、《異形の吾》を見つけては大喜びしながら、その《異形の吾》をぶん殴り撲殺するのである。さうせねば、この《吾》が殺されかねないからである。
――《吾》とは何と哀しい《もの》か――。
 と嘆いた処で、《吾》はびくともせずに《吾》をして《吾》を《吾》として建立するのである。つまり、《五蘊場》の虚空に無限に通じる闇を彫る事で、仏像の如く、《吾》を彫り出しては、それにけちを付けて一人ほくそ笑むのである。全てが自作自演の茶番劇でしかなく、それに《吾》は大いに不満なのである。不満故に《吾》は鶴首の如く首をぐっと伸ばして轆轤首に化しながら闇を更に分け入り、更に巧みに闇を彫り出す《吾》の御姿を崇めては、その直後に素知らぬ顔をしてその《異形の吾》を撲殺するのである。何とも不憫な生き《もの》が《吾》なのであるが、《吾》なる《もの》を全剿滅しなければ、不満なのである。つまり、《吾》が《吾》といふ自意識を喪失して闇に完全に溶け込んだ《吾》なる《もの》を《吾》は虚空を凝視しながら、表象するのである。それは、恰も《水》その《もの》の振舞ひに外ならず、つまり、皮袋といふ《水》の容れ《もの》が破れて、皮袋内部の《水》が零れ出すのをぢっと待ってゐるやうにも思へるのであるが、それは、しかし、死体が腐乱して腹が腐敗Gasで膨れ上がる様に似てゐて、時折《吾》を襲ふ失神する時の《世界》との合一感、つまり、《吾》が疑似体験する《死》の様相に似てゐて、《吾》が自意識を失ふ瞬間の恍惚感に遂には酔っ払ひたいのである。さうなのである。《吾》は何時も酩酊してゐたいだけに違ひないのである。壊れ行く自意識を破れたままにして、恰も《水》が流れ出すやうにして、《吾》は《吾》を彌縫せずに、《吾》は、ばっくりと大口を開けた裂け目を虚空に見出だしたいだけに過ぎぬのである。
 渺茫たる眼前の闇を凝視しながら、闇が《水》の如く流出してゐる裂け目を探すその訳は、暗闇の中で女陰を弄る様を髣髴とさせなくもないのであるが、仮令、闇の中に必ず《存在》する裂け目が女陰の象徴に過ぎぬとした処で、それはフロイトの焼き直しでしかなく、《吾》の《存在》を《生》と《性》と《死》へと還元し、身も蓋もないフロイト流の精神分析とは一線を画す、闇の裂け目――仮令、それが女陰の象徴だとしても――《異形の吾》の誕生を祝ふ予兆のやうに、闇をしっかと凝視し、此の世に屹立する《吾》の首は、その裂け目へと吸ひ込まれるに違ひないのである。《吾》は身動ぎ出来ぬ事を伏せながらも、《生》きてゐるのであれば、まるでさうでなければならないかのやうに此の世の決まった立ち位置に屹立する事を已められぬ《吾》故に、闇にばっくりと大口を開けてゐるに違ひない裂け目へと首のみがぐんぐんと伸び行き、仕舞ひには《吾》の首のみが闇の裂け目にすっぽりと嵌まり込み、《吾》は、『生まれ変わり』の儀式をひっそりと執り行ふに違ひないのだ。さうして《吾》は《吾》の伸び切った首をずばっと斬り落とし、尚も渺茫たる《五蘊場》の虚空を凝視してゐる首無しの《吾》は、自らの拳で《五蘊場》に残されしその体軀を撲殺するのである。
 一方で、闇の裂け目にすっぽりと嵌まった首のみの《吾》は、『生まれ変はり』のひっそりとした祝祭を執り行ひつつ、その首のみの《吾》は恍惚の体で《吾》に酩酊してゐるに違ひないのある。つまり、《吾》とは首のみの機能ばかりが増幅された「脳絶対主義」の如き《世界》の中で、存続するには恰も首のみが伸びた轆轤首に化した《吾》の有様がある一方で、酩酊を求めて渺茫たる《五蘊場》の虚空の中に身動ぎ出来ぬ故に、虚空の闇の裂け目へと首のみが伸び行く轆轤首が《吾》の内部には《存在》するといふ事に、
――へっへっへっ。
 と嗤ひながら、その矛盾したLogosに妙に納得するのであった。《吾》は突き詰めれば二柱の《吾》たる轆轤首といふ《神》にも似た《存在》に行き着くのである。もしかすると、轆轤首は三柱、四柱、……、∞柱、《存在》するのかも知れぬが、《吾》を最も欺く《もの》が何を隠さうこの《吾》であるならば、今の処、二柱の轆轤首には行き着いたと言へなくもないのである。
――へっへっへっ、それは 詭弁といふ《もの》だぜ。
――詭弁で構はぬではないかね?
――馬鹿な! 《吾》語りをするのであれば、詭弁は徹底的に排除されるべき《もの》であり、さうしなければ、全く以って空虚な空論に、つまり、戯言でしかなくなるんだぜ。
――それで構はぬではないか? 《吾》とは所詮《吾》為らざる《吾》へと超越する《もの》故に、《吾》なんぞどうとでも語れる《もの》なのさ。