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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 そこで、《吾》を嗤ふ《吾》とは、如何なる《存在》として、《吾》に対して再現前化するのかと問へば、それは《吾》の内界、否、《吾》といふ《存在》に「先験的」に備はってゐる《過去》、若しくは《未来》の《吾》と言へなくもないのである。《吾》が絶えず《吾》からずれるやうにゆらゆらと《吾》を中心に振幅する《吾》の反面教師であり、また、《吾》を《現在》に繋ぎ止めるに相応しい《未来》の《吾》なのである。《現在》は「先験的」に《過去》と《未来》が含意された《もの》としてしか此の世に出現しないのであるが、それはしかしながら至極当然の事で、「私」の外界は既に距離が《存在》する故に押しなべて《過去》であり、一方その《過去》の《世界》に一度目的地が出現すれば、《過去》であった筈の外界は《未来》に反転してしまふのである。つまり、《現在》にゐる《吾》と目的地の間にある距離が《未来》に対する尺度になるのである。この事は再三に亙って述べて来たが、此の世の《世界》とは、《吾》においては《過去》であり、《未来》でもあり、そして、《吾》の内界においては表象として《五蘊場》に出現するその《もの》は、未だ出現せざる《もの》の象徴として《五蘊場》に出現し、そして、《吾》の内界は《過去》の記憶を交へた未出現の《吾》、つまり、《未来》に出現するかもしれぬ《吾》として絶えず《吾》からずれ行きながら、《存在》する《もの》なのである。それは、《吾》が《吾》の内界を弄る事で、やうやっと表象される《吾》の内界における《現在》の有様であり、表象とは外界における《吾》の《現在》、つまり、《吾》の皮膚に最も近しい瞼裡に現はれる《もの》なのであって、若しくは前頭葉部に恰も表象されてゐるかの如くに看做してしまふ《吾》の大いなる誤謬であり、その誤謬があってやっと《存在》可能な《もの》として《存在》に繋ぎ止め置かれる何かとして《吾》は《吾》を感知してゐる筈である。
《吾》は瞼を閉ぢれば、眼前は前頭葉の闇と繋がった闇が拡がるばかりで、その闇=《世界に表象群は生滅するのであるが、その表象の有様こそ、《吾》の内界において皮膚に最も近しい、つまり、《現在》の様相に最も近しい《もの》として、《吾》は感知し、その表象のざわめきによって、《吾》は《吾》の《現在》を支へるのである。
――《吾》の表象群のざわめきが《吾》の《現在》を支へる?
 と、反芻する「私」は、これまた《吾》とは全く相容れない何かとして《存在》してゐて、《吾》とはそれらの「私」やら《過去》の《吾》、《未来》の《吾》が渾沌とした中に《存在》させられる事を余儀なくされるのである。その渾沌こそが《生》の源泉に違ひないのであるが、その《吾》が《吾》とずれてゐる事で、つまり、摂動してゐる事により発現する《吾》のその《生》への飽くなき執着は、《吾》をして、《現在》を支へる《存在》として《過去》であり、《未来》である外界と内界を結ぶ結節点として《吾》のみ、《現在》を体現するからくりとなってゐるのである。つまり、《吾》とは《過去》へも《未来》へも《五蘊場》においては自由に往来出来て、また、外界においても《世界》は《過去》が《未来》に反転する事を所与として《吾》に開かれた《もの》として《存在》し、《吾》とは《過去》と《未来》を繋ぐ《現在》に徹底して馴致された《もの》なのである。つまり、《吾》としては、《現在》から遁れられない《存在》として、しかしながら、《過去》へも《未来》へも往来可能で奇妙な《存在》として、此の世に《存在》するのである。
――《吾》!
 と、《吾》が《吾》を名指すその《吾》には既に去来現を自在に行き交ふ《異形の吾》が想定されてゐて、予想通り《吾》は《異形の吾》を見出す事でのみ《吾》はひと時の安寧を得るのである。
 つまり、《吾》が自己言及する度毎に、既に《吾》には《現在》といふ《過去》と《未来》を派生させる外ない、どん詰まりの《吾》を《世界》にぽつねんと《存在》する《吾》として、《吾》は《吾》を表象し、さうであるからこそ《吾》は此の世で唯一無二の《もの》と僭越ながらも「先験的」に看做すその開き直りが、これまた《吾》を厄介で偏屈な《もの》として、此の世に《存在》させてしまってゐるのもまた、真実に違ひないのである。
《吾》語りをする《吾》の虚言癖に《吾》は振り回され、絶えず《吾》は《吾》から遁れ行く《もの》として永劫に続く鬼ごっこを独りでしながら、それでゐて、『《吾》とは何ぞや』と居直る《吾》の質が悪いその有様にこそ、《吾》が《吾》でなければならない秘密が隠れてゐるかもしれないのである。
 さて、その秘密とは何なのか、勿体ぶらずに端的に言ひ切ってしまへば、それは、所詮、《吾》はどんなに足踏みしようが《吾》である事を已められず、詰まる所、《吾》とは、どれ程《過去》と《未来》の間を振幅出来るのかによって、その《生》の充実の度合ひに影響する《もの》に違ひないのである。つまり、《吾》は《吾》の《五蘊場》において表象されてゐる《吾》は既に其処に《過去》の記憶による残像としての《吾》と、これからさうなるかもしれぬ或る兆しを見据ゑた《未来》の架空の《吾》とが、無理矢理に一所に押し込まれ、重ね合はされた《現在》の事象の一例に違ひないのである。
 例へば、それは、《吾》をして《吾》に言及するしかないこの《吾》の矛盾した有様の奇妙奇天烈な様を《吾》が意識される外ないのであるが、だからと言って、《吾》が《吾》に自己言及するその仕方の何とも間抜けな、そして、苦し紛れの自棄のやんぱちぶりは、《吾》ながら苦笑する外ないのである。つまり、《吾》が《吾》に対して自己言及する奇怪さは、《吾》が《吾》において空転する宿命にあるに違ひないのである。それ故に、《吾》について自己言及する場合、大概は饒舌に為らざるを得ぬとはいへ、一生かかっても語り果せる筈はないのである。それを知りながら確信犯的に《吾》は《吾》に対して自己言及し、不意に『《吾》とは何ぞや』と思春期特有の疑問が己に湧いて来ると、《吾》は《吾》に首ったけに為る外ないのである。つまり、《吾》はさうして初めて《吾》なる《もの》を見出し、僭越ながら、《吾》の超克を願って已まないのである。さうして《吾》が《吾》ばかりに意識が集中する堂堂巡りの呪縛から、最早、遁れらないのである。
――だから、それがどうしたといふのかね?
 と、既に《吾》として居直る《吾》が《吾》に対して嘲りを向けるのであるが、どうした事はない、《吾》は《吾》といふ同じ場所で蜿蜒と足踏みするのみの《吾》を見出だす事で、《吾》は《吾》の此の世に置かれた事情を暗黙裡に呑み込み、《吾》は、《吾》を深追ひしては駄目だといふ事を重重承知の上で、《吾》を追ふ鬼ごっこが已められないのである。さうして気ばかりが逸る《吾》は、不意に轆轤首の変態の準備をしてゐる事とは露知らず、高度情報化社会の中における野蛮なる《吾》、つまり、原初の頃より、変質してゐないこの《吾》の蛮行に《吾》は悩まされるのである。
――はて、《吾》の蛮行とは如何に?
 と自問する声が頭蓋内の闇、つまり、《五蘊場》で囁かれるのであるが、
――それは愚問だせ。