審問官第三章「轆轤首」
私の原体験に既に投げ独楽回しといふ《もの》があり、それが、私の渦好きを確認させるに十分な《もの》なのであったが、気が付くと投げ独楽は何時も私の《五蘊場》で回り続ける事になったのである。しかし、それが《吾》へと変容する事はなく、相変はらず客体としての投げ独楽の表象なのであった。その投げ独楽が、今、《吾》として轆轤首の首を自らぶった切った後の《吾》は、一つの投げ独楽の如くあったのである。投げ独楽の中心は当然、回ってをらず、ぴたっとこの地に屹立して静止してゐるのは言はずもがなであったが、腐敗Gasとして《吾》の《五蘊場》に充溢した《吾》が、石ころと化した《吾》の周りを回る「私」といふ《もの》の表象は、或ひは幼少期の投げ独楽回しにその淵源があると看做してしまへば、それはさうに違ひないのである。しかし、私の世界認識の一つに『《世界》は渦である』と乱暴ながらどうしてもさう看做して仕舞はないと済まぬ強迫観念の如き一念があるのである。そして、それは、単純に『《吾》もまた渦である』といふ私の《吾》=観に繋がってゐるのは否定しようもない事実なのであった。
そもそも《吾》が《吾》と呼んでゐる《もの》の正体は何なのであらうか、と如何にも愚問でしかない問ひを《吾》に発する此の《吾》の馬鹿さ加減は、手に負へぬ《もの》に違ひないのである。此の《吾》が『《吾》とは何ぞや』と自問自答を発した刹那、《吾》は偽装を始めるのは明らかなのであるが、《吾》はそれでも『《吾》とは何ぞや』と虚しい問ひを発してしまふのである。その時に《吾》の《五蘊場》に生滅する表象が《吾》の正体であると言へなくもないのであるが、しかし、《吾》は変幻自在にその姿を変へ、仕舞ひには《吾》を煙に巻くのが関の山なのである。それでも現在、《吾》は轆轤首の表象を自らぶった切り、そして、その切られた首は途轍もなく時間がゆっくりと流れる石ころの《吾》とそれを取り巻く《吾》の腐敗したGasである《吾》がまた、《吾》の偽装でしかない事は重重承知しながらも、《吾》が渦である事に何となく安堵してゐる《吾》が、また、《存在》するのであった。
《吾》の誤謬こそが《吾》の生存する方便なのかもしれず、《吾》は絶えず《吾》を誤謬するからこそ、現在に堪へ得、そして、更に《吾》を摑み損ねて、誤謬する事で、《吾》は《吾》に生じるGap(ギャップ)を《吾》が《存在》する起動力に変換してゐるのかもしれなかったのである。
投げ独楽と化した《吾》。果たして、これは《吾》の所望した《吾》の表象なのであらうか。確かに《吾》は『《吾》もまた渦の変種である』と看做してゐるが、だからと言って、《吾》の《吾》に対する表象が投げ独楽の如き渦巻である理由にならない。《吾》とは面妖なる複雑怪奇な《もの》の筈で、一筋縄ではゆかぬ《存在》に違ひないのである、と思ひながら《吾》が面妖で複雑怪奇な《もの》である理由もまた見出せぬのである。然しながら、科学的な知識で、《吾》の正体を追ひ詰めた処で、《吾》はあかんべをしてするりと逃げ果せるのが関の山で、《吾》は終ぞ《吾》によって捕獲される事はないのである。然しながら、現に《吾》は此の世に《存在》し、さうして生きてゐるのである。
《吾》は絶えず《吾》を喰らって生き永らへてた《もの》に違ひなく、《吾》は《吾》を喰らはずして一時も此の《世界》で生き延びる事は不可能であるのか? さて、このAporiaは一朝一夕に片付くAporiaではなく、先づ、《吾》の発生が語られなければならない筈であるが、《吾》の発生に関して《吾》の意思により《吾》が発生したなどと馬鹿げたLogos(ロゴス)を打ち立てる輩はゐないのであるが、私は《吾》の発生に《吾》の意思、つまり、《念》が深く関はってゐると看做してゐるのであるが、それではその《吾》といふ《念》は何処からやって来たのかと問へば、それは此の宇宙開闢の時に既に此の宇宙の発生を夢見てゐた《もの》――それを《神》と名付けた方が良いのかもしれぬ――の《念》として《存在》してゐたとしか言へぬのである。つまり、それは、魂の不滅説に近しい《もの》に違ひないが、魂は後付けの《もの》で『初めに《念》ありき』といふのが、馬鹿げた論理の端緒なのである。つまり、《吾》といふ《念》は「反復」を繰り返すのである。此の「反復」は然しながら、いづれの場合も一回限りの《もの》であり、二度と同じ経験を味はふ事はないのであるが、しかし、《生》とはそもそも「反復」であって、生老病死もまた、「反復」なのである。ところが、此の世は諸行無常であり、《生死》は絶えず此の世で繰り返されるが、どの《生死》をとっても同じ《もの》はなく、然しながら、《生死》は《生死》として表現される《もの》なのである。
――何を夢物語を語って悦に入ってゐるのか?
と、これまた半畳が入るに違ひないのであるが、しかし、《吾》とは考へれば考へる程にAporiaといふ陥穽に嵌り込む宿命にあり、《吾》の発生からして《吾》はそれがどうであれ受容せねばならぬ《もの》として、此の世に《存在》し、さうして、何とか《吾》の《生》を受容した《吾》の《死》をも次第に受容しつつ、今生を生きる糧にしてゐるのである。《吾》は絶えず切断した《もの》として、つまり、《吾》を喰らふ事によってのみ《生》を繋げるのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪