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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 と、嗤ふしかないのである。つまり、事の本質は、《吾》なる《もの》を歴史的な《もの》として偽装したいだけなのである。《吾》に何かしらの本質があるかもしれぬと敢へて勘違ひしてゐたいのである。さうする事で、《吾》の卑しい本性が暴かれる事を期待してゐるのかもしれぬのである。つまり、ニーチェが撒き餌となって《吾》が誘ひ出されて喰らひ付く事を無意識に望んでゐるのかもしれず、将又、墓穴を掘る《吾》の無様さが《吾》の所望なのかもしれぬのである。
 とはいへ、《吾》の《吾》による自己暴露のやうな愚劣極まりない事をする程に《吾》は己惚れてゐる事もなく、書く事のその困難さには絶えず悩まされつつ、《吾》は《吾》の轆轤首といふ《吾》の有様を一つの切り口として、《吾》なる《もの》のその正体を摑まへる罠を張ったのであるが、《吾》は轆轤首から、石ころへと変容してしまひ、《吾》はそれによって《吾》の滞る時間の中で、唯単に《吾》を持て余してゐるに過ぎないのである。其処で手持無沙汰な《吾》は、途轍もなくゆっくりと流れる《五蘊場》の中の石ころと化した《吾》をしてニーチェなんぞを持ち出して迄して《吾》の一般化を試みる愚行をしてゐるのである。何の事はない。《吾》は無名であることに我慢がならず、《吾》なる《もの》の一般化をこの《吾》の思考を用ゐて為さうとしてゐるのである。それは、何故かと自問自答すれば、《吾》は、つまり、《五蘊場》に腐敗Gasの如く充満し、石ころの《吾》を枢軸として渦を巻く、その二様の《吾》の構造を明らかにしたいといふ欲求があるといふ事の中に、《吾》は《吾》を偽装してゐるに過ぎないといふ事に思ひ当るのである。《吾》は《吾》の構造を明らかにし、例へばそれが一般化される僥倖に恵まれる事に淡い淡い淡い期待を抱いてゐるのである。《吾》とは、それ程迄に、とんだ食はせ《もの》でしかないのである。
――そんな事は誰もが知ってゐる事だぜ。
 と、此処で半畳が入るのであるが、しかし、《吾》の偽りの構造を白日の下に晒す事で、ちっとは、その《吾》なる《もの》の尻尾でも摑まへられるかもしれぬといふ、これまたどうしやうもなく、人を喰ったやうな欺瞞に満ちた《吾》の有様が暴かれるのみの、骨折り損のくたびれ儲けが、目に浮かび、つまり、《吾》といふ《もの》は何処まで穿っても道化師なる《吾》が、
――へっへっへっ。
 と、《吾》に対して嗤ってゐる《吾》といふ構図に出くはすのみなのである。
 では、轆轤首なる《吾》、《異形の吾》、将又、腐敗Gasの如き《吾》、そして、石ころの《吾》など、《吾》なる《もの》を追ひ詰めたと思ひきや、何の事はない、《吾》の狸の如き化かし合ひにすっかり騙された馬鹿面をした《吾》に出合ってゐる事を、只管にひた隠し、《吾》は、詰まる所、《吾》に諂ってゐるに過ぎないのである。
《吾》たらむとする事は、《吾》の下僕として《吾》は《存在》する事を自ら望み、さうして《吾》は、やうやっと《吾》と名指す《もの》を辛うじて表象するのである。それが《吾》においては、轆轤首であり、《五蘊場》で渦巻く石ころの《吾》とそれを取り巻くGas状の《吾》なのである。
 さて、《吾》はそもそも一筋縄にゆかぬ《もの》といふ事が、《吾》なる《もの》の面妖なる様相の幾つかを見出しただけでもそのお足は知れるといふ《もの》なのである。そもそも《吾》なる《もの》はみっともない《もの》でしかなく、それを暴露した処で、《吾》を摑まへたなどとはちっとも感じられる筈もなく、絶えず偽装する《吾》にあかんべをされて仕舞ひなのが関の山なのである。《吾》なる《もの》が、《吾》なる《もの》を追ひ詰めるこの不思議を《吾》は何時も嗤ひながら、しかし、其処から一歩も退かずにへらへらと嗤ひながら、《吾》なる《もの》を追ひ詰めなければ気が済まぬ性分なのである。《吾》の一様態が轆轤首である事は予想してゐたが、その《吾》が時間が途轍もなくゆっくりと流れる《吾》の核の如き石ころの《吾》と、それを枢軸として渦を巻く腐敗Gasの《吾》が、轆轤首の伸び切ったその首をぶった切って《吾》の内部に仮初とはいへ、出現した事に《吾》とは所詮、渦しか頭になかった《存在》ではないかと《吾》は《吾》を訝るのである。
 何も私の渦好きは今に始まった事ではない。気が付けば私は、既に渦に夢中になってゐた《吾》を見出したのである。何がそんなに渦は私を魅了するのかは、単純で、渦は絶えず変化するにも拘らず、それが相変はらず渦のままだからなのである。例へば投げ独楽を回すのが私の幼少時の大好きな遊びで、木地の投げ独楽が、駄菓子屋の店頭に並ぶと、私は幾つか手に取り、投げ独楽の芯を指で捻って回してみて、その投げ独楽がどのやうな回り方をするのかも一一確認して、回る姿が最も美しい木地の投げ独楽と麻縄を買って、空き地で早速回して大喜びするのを常としてゐたのである。その投げ独楽の面に塗られてある模様が何とも見事な渦を巻くから、私にとってこんな理想的な遊びはなかった訳である。しかし、投げ独楽を回すにはかなりの忍耐強い修練が必要で、上から振り被って思いっ切り投げ独楽を投げつけて、急速回転で回せるやうになるには、それは、投げ独楽を回す麻縄に手が擦り切れて血が出る迄に練習をしなければ巧く回せるやうにならないのであるが、私は、既に投げ独楽に渦模様を見てしまってゐる故にか、投げ独楽を手にした始めの何日かは投げ独楽が思いっ切り回せるやうになる迄、何度も飽く事無く繰り返し練習したのであった。しかし、人間練習すれば何とか投げ独楽を巧く回せるやうになるのである。その時のすかっと突き抜けたやうな快感は何とも言へない《もの》であったが、一度その快楽を知ってしまふと最早投げ独楽を回す事が已められないのである。芯棒がきちんと重心にある投げ独楽のその美しい回り方は息を呑む程で、一度でもそれを見てしまふと、最早、投げ独楽の虜になる外ないのである。只管に、美しいその投げ独楽を眺めては、その回転が出来得る限り長く続くやうに回し方を何度も工夫してみては『これだ!』といふ回し方を己で見出す《もの》が、此の《吾》なのである。芯棒が全くずれてゐない投げ独楽のその美しく回転する様は、今も此の世の《もの》とは思へぬ《もの》で、投げ独楽の面の模様が渦巻くその美しさは、得も言へぬ美しさなのであった。