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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 さて、『初めに《吾》ありき』と、さも知ってゐたかの如くに《吾》なる《もの》を想定してみたのであるが、《吾》といふ感覚は卵子と精子が受精した刹那、最も体感する感覚に違ひないのである。何故ならば、受精した事で《吾》は定まるからである。仮令、それが死産であったとしても受精卵にこそ《吾》は万能感に満ち足りた《吾》を味はってゐる筈なのである。そして、万能感に満ち足りた《吾》たる受精卵はその《吾》を実現するべく、細胞分裂を繰り返すのである。それは、全て《吾》たる《もの》の実現故になのである。
 爆発的に細胞分裂してゐる時の《吾》程、《吾》である事に満ち足りた《吾》はもしかすると《存在》しないのかもしれないのである。それ程、たった《一》の受精卵から多細胞生物へと為り行くべく、細胞分裂を繰り広げる《吾》は、いづれの細胞にも等しく《吾》としての《念》が宿ってゐる筈で、それ故に《一》の個体の「現存在」が羊水の中に出現するその細胞の成長過程にちゃんと《吾》は宿り、その個体の細胞一つ一つにも、そして、個体を一つの《もの》と看做しても等しく《吾》といふ《念》が宿り、やがて《吾》が《吾》として目覚める素地が形成されるのである。
 そして、細胞分裂するその細胞一つ一つが皆、『《吾》とは何ぞ』との問ひを発する矛盾を抱へ込むのである。つまり、元元、たった《一》であった受精卵が約六十兆個もの細胞にまで分裂とApoptosis(アポトーシス)を繰り返し、一つの個体としてある《吾》といふ《もの》をその六十兆個もの細胞からなる個体全体としての《吾》と細胞一つ一つに宿る《吾》は、その出自を忘却する事で辛うじて此の世に出現することが可能なのである。
 それは薄ぼんやりした《吾》とでも名付けるべき《もの》なのか、《一》の受精卵が約六十兆個もの細胞により為る《人体》へと発育した羊水にたゆたふ胎児は、さて、其処には「先験的」に《吾》が宿ってゐるに違ひないのである。何を馬鹿な事をと思ふのであるが、しかし、《吾》が何《もの》にも先立つと考へなければ、さて、一体、何処から《吾》なる《もの》は、《吾》の処にやって来るといふのか。受精卵の時点、否、それ以前の未だ何《もの》の《存在》しない時点で、既に《吾》の出現は約束されてゐたに違ひないのである。つまり、煎じ詰めれば、《吾》の発生とは何なのかという事は、宇宙の始まりと同様に未だに謎なのである。謎であるならば、「先験的」に《吾》は《存在》してゐると看做してしまふのも一つの方法である。つまり、この論法でゆくと、宇宙もその始まり以前にその出現が約束されてゐたのである。さう看做す事で辛うじて《吾》の《存在》は論理的にも非論理的にも堪え得る何かとして《存在》出来るのである。つまり、これは無から有は生じないといふ事を前提とした《もの》で、尤も、これは如何にもこじ付けとしか思へぬのであるが、しかし、《吾》の出現を考へると、それは《吾》が出現する以前既に《吾》が「先験的」に《存在》すると看做す外に《吾》の出現を語り果せる根拠がないのも事実で、私は、それは《吾》の《念》と呼んで、《吾》の出現以前に《吾》の《念》が《存在》すると看做してゐて、その《吾》といふ《念》は、変幻自在の《もの》で、《吾》は、例へば轆轤首に変化したやうに《吾》とは、何にでも変容可能な何かなのである。さうでなければ、激変する環境の中で存続出来る筈がないのである。
 さて、これを一般化する事が可能であるかと考へた時、どうも旗色が悪く、「先験的」に《吾》の《念》が《存在》するといふ《インチキ》を尤もらしく見せるには何か離れ業が必要なのであるが、現時点で、私にはその術がなく、唯、《吾》といふのは《吾》が《存在》する以前に《吾》は《念》として此の世にか彼の世にかのいづれかに《存在》してゐると根拠なき空論を振り回して己の憤懣を鎮めるので精一杯なのである。さうでなければ、必ず《吾》が此の世に出現する暴挙が説明出来ないやうに思ふのであるが、そんな事は、人間が此の世に出現して以来ずっと考へられてゐた事に違ひなく、宗教が《存在》するのは、多分にさうした理由からに違ひないのである。とはいへ、一人合点するのみであれば、《吾》なんぞ、どう出現しようが、個人の勝手であるが、一般化するやうにしたいといふ欲求は、《吾》にとって止めようもない事で、元来、《吾》は一般化が大好きなのである。つまり、永劫が大好きなのである。一般化とは、何時の時代でも成り立つ《もの》に違ひなく、ニーチェが言ふ永劫回帰に殉ずる為にも《吾》の思考を何としても一般化したくてうずうずしてゐるのである。例えば、かう言へば解かり易いかもしれない。つまり、ニーチェの言ふ永劫回帰は円運動で、ドゥルーズが言ふ反復は、切断した螺旋運動といふやうに看做すと、どう足掻いても切断した螺旋運動しか出来ぬ《吾》の《生》は、一回限りの《もの》で、その点においては永劫回帰の仲間入りはとても出来る状況ではなく、《生》とはそもそも反復でしかなく、《死》すれば全てご和算に違ひないのである。ところが、思索の足跡を文に認めて遺すだけで、それは何千年後でも構はぬのであるが、何か思索の足跡を遺しておけば、後世の未来人がそれを読む事で、《吾》の《念》を後世の未来人の《五蘊場》に喚起させる事は可能なのかもしれないのである。尤もそれを読んで貰へなければ、何の意味もなく、闇に葬り去られるだけなのであるが、しかし、エクリチュールはニーチェの永劫回帰に摺り寄る近道なのかもしれないのだ。否、言語はそれが音として録音されてゐてもそれはニーチェの永劫回帰に摺り寄る近道なのかもしれないのだ。否、絵としても、彫刻としても、などなど、何にしても、《吾》が《存在》した足跡を一般化する仕方で遺せれば、それはニーチェが言う永劫回帰という一般化の近道に違ひないのだ。
 だが、そもそもニーチェの言ふ永劫回帰が一般化した《もの》なのかどうかといふその根本的な疑問が問はれなければならないだらう。そもそも何故にニーチェの永劫回帰なのか。それは、簡単である。この《吾》よりもニーチェの方が比べる迄もなく、一般化した《存在》なのである。ニーチェその本人は、既に亡くなってゐるが、その著書は翻訳されてゐて、この《吾》よりも断然に一般的なのである。これは、私が逆立ちしようが変はらない。とはいへ、虎の威を借りるやうにニーチェを持ち出してゐるのであれば、それは卑怯者の誹りを免れないに違ひない。ところが、この《吾》の事なんぞこの《吾》以外どうでもいいのである。《吾》を此処で晒した処で、誰も見向きもしないに違ひない。ところが、ニーチェであれば、誰かしら関心を示す筈である。
――だから、ニーチェを持ち出したのか?
 と、《吾》を自嘲する《吾》は、
――へっ。