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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 ところが、言語を獲得しない時間といふのは、思ふに途轍もなくゆっくりと流れる《もの》であって、つまり、言語化されぬ故に覚醒未然の《吾》といふ意識はゆっくりとその頭を擡げるのであって、その中で《吾》は《吾》である事を魂魄で以ってぢっと味はふのである。さうする事で、《吾》と《世界》との彼岸に《吾》の思索は跳躍し、その彼岸における幸福感を《吾》は独り占めするのであった。
《吾》と《世界》との彼岸とは《個時空》における時空間の地平線の事に相違ないのであるが、ところが、それが何であるのかを言語化するには曖昧な《もの》で、唯、直感的にそれは感じ取れる何かであり、未だ言語を獲得出来ぬ《吾》において、その《吾》と《世界》との彼岸とは、言語を獲得出来ぬが故に味はへる万能感においてのみ直覚出来る《もの》なのであって、その残滓は言語を獲得しても尚、《吾》には仄かに残ってゐる筈で、残ってゐるが故に《吾》は《吾》を或る限界がある《存在》として把握するのである。
 まだ、《吾》が覚醒する以前の幽かに《吾》なる《もの》が《吾》の《五蘊場》に頭を擡げた時、《吾》の万能感が《自然》な《もの》として《吾》は直覚するに違ひない。例へば羊水の中の胎児の《五蘊場》は未発達故に、そして、回路が未完成故に《吾》は万能感を感ずるのである。胎児は、或る時、手足を動かし、眼玉をかっと見開き、闇を凝視するに違ひないが、この場合でも《五蘊場》の構造が未完成故に、《吾》の行為に不自由が生じてゐないなどとは感じる筈もなく、例へば眼玉をかっと見開くだけでその万能感は得も言へぬ快楽を《吾》に齎すのである。それ迄、眼玉をかっと見開く事すら出来なかった胎児が、初めて眼玉をかっと見開く事が出来たのである。その万能感は推して知るべし《もの》で、それは、快楽に違ひなく、快楽故に微細な微細な微細な《吾》といふ記憶素子に記憶されたその万能感は、更なる快楽、つまり、万能感を味はふべく、足をとんと動かせるやうになるのである。さうやって、快楽の積み重ねによって《五蘊場》は満たされ、胎児の《五蘊場》は言語を獲得してゐない故に、至福に満たされた《もの》として羊水にたゆたふのである。それは、多分、此の世に誕生してしまふ胎児において、最早、二度と訪れない至福の時間なのであって、失楽園のMotif(モチーフ)は胎児における万能感の喪失によるところ大に違ひないのである。それ程に脳が未発達故の《五蘊場》が未完成ならば、羊水にたゆたふ胎児は、当然、浮遊してゐる中にあるのであるが、その状態が《自然》故に、羊水にたゆたふ胎児の万能感は、その羊水に浮遊してゐる、例へば自由落下中の浮遊感にも似たそれは、胎児の万能感の礎なのである。未だに重力の《存在》を知らない胎児において、落ちるといふ感覚は皆無であって、たゆたふ事に万能感の秘密が隠されてゐるに違ひなく、その感覚は未だ海中に留まる原=生物の原初的な感覚の発露に相違ないのである。
 存分にその原初的なる感覚を味はひ尽くす羊水中の胎児はその万能感に溺れる筈である。それ程迄に未完成といふ事は万能感に近しい《もの》なのであって、つまり、《五蘊場》が未完成であればある程に万能感は大きく、それは、例へば《五蘊場》のない《存在》において無限大に万能であるといふ事を暗示してゐるのかもしれず、仮に《五蘊場》=脳といふ余りに強引な考へ方を用いれば、脳がない《存在》において万能感は∞に達する筈で、つまり、《もの》として此の世に《存在》する《もの》は全て得も言へぬ万能感の中にあるに違ひないのである。つまり、言葉など持ってしまったが故に「現存在」は堕天使の如く地上に落下し、つまり、出産と同時に途轍もない不自由を感じ、そして後は、その不自由に馴致させられるばかりなのである。つまり、言葉の発現の端緒に《吾》の万能からの逸脱があり、或ひは、羊水の中では、無限の万能感の中にあった《吾》は、此の世に産み落とされると同時に、その万能感を根こそぎ剥ぎ取られる事を意味し、それ故に嘗てあった《吾》と現にある《吾》の隔絶により、赤子が言語を獲得する原動力になってゐるのかもしれないのである。つまり、言葉とは、《存在》の不自由を指し示すBarometer(バロメータ)に過ぎず、《存在》の不自由さを言ひ当てるべく、此の世に発生した《もの》なのかもしれなかったのである。
 更に言へば、卵子と精子が受精した刹那こそ、万能感の極致に違ひないのである。何故かと言へば、受精卵こそ何にでも変容可能な《もの》として此の世に出現した《存在》と言へなくもないのである。其処で受精卵において卵子と精子の受精は、偶然の仕業か、元元決まってゐた受精、即ち、必然の仕業なのか判断に困るのであるが、しかし、受精が偶然であらうが、必然であらうが、卵子と精子が受精した刹那こそが、此の世で味はへる最高の万能感に違ひないのである。受精するべく準備をしてゐた卵子と、卵子目がけて邁進する精子共の中からたった一匹の精虫が受精するのである。其処には、選別して《死》する事を余儀なくされた卵子と、《吾》に為れなかった夥しい数の精子の《死》が横たはっているが、受精そのものは、得も言へぬ満足感に違ひなく卵子と精子が宿命付けられてゐる使命を果たした満足感と言ったらむべなるかな、なのである。
 さて、それでは、受精卵が遺伝子の発動により、細胞分裂する時はどうであらうか。そもそも細胞分裂に快不快が《存在》するのか不明なのを承知の上で敢へて言へば、それは当然快楽に違ひないのである。そもそも細胞分裂して《一》であった受精卵が《二》に分裂する様は、さて、其処に《他》を見るか《吾》の鏡面を見るか、興味は尽きぬ事であるが、多分、《一》であった受精卵が《二》に分裂した時、《吾》は《吾》と《他》の両方を《二》に分裂した受精卵に見ている筈なのである。つまり、《二》に分裂した受精卵のどちらが《吾》であり、どちらが《他》なのであるかは既に不明確なのである。細胞分裂とは《吾》の拡張であるとともに《他》の受容なのである。多分、全てにおいて曖昧模糊な筈なのである。《吾》である自覚は未だ芽生えてをらず、さりとて受精において《吾》は《吾》である事を思ひ知らされ、その《吾》は何かが大分欠けてゐる事を知るのである。さうして遺伝子が発動し、細胞分裂を遂げるのであるが、其処には絶えず《吾》と《他》の葛藤があり、それ故に、細胞分裂する《吾》は、心地良い筈で、つまり、受精卵といふ万能感に満ちた《もの》は、その万能感を味はふべく、細胞分裂し始めるのである。多細胞生物は単細胞生物である事を已めたのは細胞分裂に《吾》が味はふ快楽があってこそと看做せなくもないのである。細胞分裂に快楽がなければ、此の世に多細胞生物は出現することはなく、また、環境が単細胞生物から多細胞生物の出現を強要したとしても、それは、しかし、多細胞生物の存続を約束したものではなく、其処に多細胞生物は多細胞故に《吾》を自覚する離れ業をいとも簡単に成し遂げ、また、其処に快楽がなければ、多細胞生物が今もって存続することはないのである。