審問官第三章「轆轤首」
と泣き叫ぶその「不快」を語り果せれば、それは全く人類の見知らぬ存在論足り得るといった趣旨の事を述べていた筈であるが、それは、思ふにまったくの誤謬で、赤子の《存在》はそれが何であれ、満ち足りてゐるに違ひないと思へて仕方がないのである。揺籃期における《世界》と《吾》の微妙な距離感は、其処に言語がまだ獲得出来ぬ故の事であって、《吾》が《他》の口調を真似て次第に言語を獲得してゆく過程で、《吾》は魂魄の微細が眺められるやうになり、《世界》と《吾》の些細な齟齬の発生が恰も此の世の《吾》に対する責苦の如くに受容し、さうして、《吾》なる《もの》は絶えず《吾》なる事に我慢するに違ひないのである。
さて、轆轤首の首をぶった切って《五蘊場》の中で石ころに変化した《吾》は、ぴたりと時間が止まったかのやうにその流れは途轍もなくゆっくりで、
――《吾》。
といふ言葉すら発するのに何十年もかかる次第になったのであるが、その言葉を知りながらも、最早、
――《吾》。
と語る事すらままならなくなった石ころの《吾》は既に《吾》と《世界》の関係に思ひを馳せる事は何万年単位で考へねばならず、その《吾》は《吾》が《死》しても未来永劫に亙って此の世に残るに違ひないのであるが、しかし、石ころの《吾》を核として渦を巻く事で《五蘊場》に微細なる《吾》といふ記憶素子を誕生させつつ、それら無数の《吾》共は脳細胞の如くに繋がる迄には、まだまだ時間がかかる状態の中に《存在》した《吾》は、然しながら、
――《吾》。
といふ言葉を知らないが故に無上の喜びに浸る事が可能となったのである。それまで首を自らぶった切った轆轤首として、絶えず、《吾》と《吾》の不和、将又、《世界》と《吾》との不和に終止符を打てずに、結局の処、絶えず《吾》に躓いてゐた《吾》は、石ころに変化した事で、《吾》と《吾》の不和、将又、《世界》と《吾》の不和どころの話ではなく、《吾》における時間の意味を《五蘊場》に蹲る事で、全身全霊で受容する或る何かへと変貌を遂げたのは言ふまでもない。《五蘊場》の渦巻の核たる石ころの《吾》は、時間により半ば強引に《吾》に対峙する《吾》といふ構図を剥ぎ取られ、まるで中有に抛り出された如くに、
――《吾》。
とすら発せられぬ時間の流れに留め置かれたのであるが、しかし、それは、それで《吾》にとっては途轍もなく居心地が良かったのである。何故ならば、《個時空》といふ或る意味非常にせっかちな思考を容れる時空間からの解放を、石ころと化した元轆轤首の首であった《吾》は為されたのであり、《個時空》からの解放とは、対《世界》にとっても、対《吾》にとってもそれは自由自在を意味する事へと結び付き、時間が途轍もなくゆっくりと流れる石ころの《吾》にとって、《吾》は絶えず時間が途轍もなくゆっくりと流れるが故に《個時空》の時空間の地平線を凝視してゐられたのであった。それは、無上の喜びに違ひなかったのである。何故ならば、時空間の地平線とは、《吾》の涯の事に外ならず、それを知り得れば、《吾》はどれ程に《吾》に巧く対峙し得るのか、それは、筆舌尽くし難い途轍もなく居心地が良い《吾》の《存在》のあり方に違ひないのであった。
途轍もなくゆっくりと流れる時間の中にゐる《吾》の思索は、決して言語を伴った《もの》ではなかったのであるが、感覚的な、もっと正確を期せば、皮膚感覚は、言語化されずに感覚として《吾》に留まり、それは彗星の如く尾を曳き、皮膚感覚が肉体の形相を敏感に意識させ、とはいへ、それは絶えず言語化する事を失敗する形で、《吾》の《五蘊場》に蓄積されゆき、くっきりと《吾》の肉体は、《五蘊場》に表象されるのであった。つまり、言語化されずとも、心像としてあらゆる《もの》が《五蘊場》に刻まれ、その方法において、私と《世界》との間に不和を全く生じずに、吾が表象は吾が肉体にぴたりと重なり、といふ事は《吾》は未だぴくりとも動かぬ仮死状態のままに、《世界》に大の字になって横たはってゐたに過ぎなかったのである。そして、《吾》は全身、《世界》に対するCensor(センサー)と化してゐて、《世界》の変容のみによって《吾》の表象は漸く保証されるのであり、《世界》の変調によってのみ、《吾》は《吾》の《存在》を認識出来るのであった。つまり、《世界》の変調を感じ取る《吾》の感覚は、《五蘊場》においては渦巻の中の《吾》といふ綺羅星となるのであったが、それらが、渦を巻く事によって、言語化されずとも統覚されいて、《吾》といふ《もの》と《世界》といふ《もの》はある程度類型化される事になるのである。とはいへ、それは、非常に大雑把で、大雑把故に《吾》と《世界》の合一感は、底知れぬ喜びを《吾》に齎すのであった。つまり、大雑把に類型化するといふ作業を仔細に眺めてみると、それは大変に巧妙なものなのであって、《吾》といふ《もの》、また、《世界》といふ《もの》を大雑把に類型化して認識するとは、その類型化した形相がFractalである事に合点が行く筈なのである。然しながら当の言語を未だ獲得出来ずにゐる《吾》は、そんな事は微塵も知らぬのであるが、しかし、《吾》は《五蘊場》の微細な微細な微細な《吾》として、また、或る種の記憶素子として記憶を留める役目を果たすその《吾》が、Fractalである故に、その微細な微細な微細な《吾》は、《吾》として微塵も疑ふ事無く、それをして《吾》と看做すのである。とはいへ、それは、未だ言語化されずにある故に《吾》を未来永劫に探し求めるやうに《世界》を彷徨ひ歩くのである。言語化とは其処に或る種の断念がなければ全く成立しない《もの》に違ひなく、未だ言語を失ったままのその首の繋がった《吾》は《吾》である事を全的に肯定する筈なのである。例へば胎児は未だ言語化されぬ《吾》との全一感によって心身共に満たされてゐる筈で、さうでなければ、胎児は子宮の中で間違ひなく自死する筈であるが、大概の胎児は産まれる事を待機しつつ、未だ言語化出来ずともにその朧な《吾》といふ意識の覚醒した《吾》の万能感に途轍もなく近い満足感を得てゐる筈で、さうでなければ、《吾》は此の世に誕生する筈はないのである。
『初めにlogos(ロゴス)ありき』といふのは、ヨハネの福音書たる聖書の書き始めであるが、それは、恐らく全くの間違いであって、『初めに《吾》ありき』に違ひないのである。当然その《吾》は未だ言語化されるには遠い、遥か以前の《吾》の事であり、その状態の《吾》は全能なる《神》の如く此の世未然の子宮の中の羊水にたゆたってゐるに違ひないのである。言語なき故に、《吾》は万能である何かであって、その記憶の残滓は、後に言語を獲得しても《存在》する筈で、さうでなければ、《吾》は《吾》に踏み迷って《吾》に絶望する筈はないのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪