審問官第三章「轆轤首」
一体何を見られたといふのであらうか? 《吾》は、《五蘊場》の闇に蹲るその《吾》を訝る《吾》の気配を感じた刹那、反射的にさう喚いたのである。その《吾》を訝る《吾》は《吾》の鬼子に違ひなく、《吾》は《吾》を訝る《吾》を確かに《吾》だと思ふのであったが、しかし、その《吾》を訝る《吾》は、《吾》と一致する《存在》では決してなく、むしろ、それは《吾》の異端に違ひなかったのである。そして、異端である事が《吾》には致命傷で、何か新たに始まるのは、必ず異端からで、《吾》に《吾》を訝る異端の《吾》が出現したといふ事は、《吾》の変態も近しいかもしれぬ暗示に思はぬ事もなかったが、唯、私はその《吾》を訝る《吾》からは目を背けて臭い物には蓋の如く、闇中に《吾》を訝る《吾》をうっちゃっておくしかなかったのである。しかし、暫くすると、その《吾》を訝る《吾》は発酵を始め、気泡を発するやうになり、また、不快な臭いを辺りに漂はせ始めたのである。それでも尚、《吾》はその《吾》を訝る《吾》を抛っておいたのである。すると、その《吾》を訝る《吾》は発酵熱で仕舞ひに蒸発してしまったのである。
――しまった!
これはとんでもない事態を招いてしまったと、《吾》は天を仰いで嘆息するばかりなのであった。それといふのも、蒸発した《吾》を訝る《吾》は《五蘊場》の闇全体に充満し、遍く《存在》する《もの》へと変化したのである。それは、《吾》を真綿で首を絞めるやうに《吾》をぎりぎりと追ひ詰めたのである。何の事はない、《吾》は《幻=世界》から追ひ出される羽目に陥ったのである。これは、全く喜劇でしかなく、《吾》から追ひ出される《吾》とは、一体何なのか、自ら問はずにはゐられず、また、何故に《吾》は、《吾》を訝る《吾》に追はれなければならぬのか、その顚末に、
――わっはっはっはっ。
と、嗤ってはみるのであるが、どうしても納得が行かぬのであった。しかし、《吾》を訝る《吾》は《吾》に対しては問答無用で、《吾》の殲滅のみを《存在理由》としてゐるかの如く、《吾》の《死》をのみ、只管に追ひ求めるのであった。然しながら、追ひ詰められたとはいへ、尚も存続を望む《吾》は、最期に破れかぶれの自棄のやんぱちで、
――破!
と叫んだのであるが、しかし、その途端に、一つの石ころに変化してしまったのである。
――何たることか――。
既に時遅く、爾来、《吾》は《五蘊場》に一つの石ころとして闇の中に蹲る事を強要されたのであった。
石ころに化した《吾》は、その刹那、時間の進み具合が途轍もなくゆっくりとなり、その《吾》は止まってしまった現在に置かれる如くにあるのみなのであった。一方、《五蘊場》に遍く《存在》する《吾》は、《吾》を訝る《吾》故に絶えず、《吾》に対して反語を投げかける《吾》として《五蘊場》に《存在》する事になるのであるが、しかし、それは少し話が進み過ぎである。首をぶった切った轆轤首の《吾》の意識が、石ころとして頭蓋内の闇たる《五蘊場》に蹲る事態に《吾》は、面食らったのである。ところが、途端に石ころの《吾》に流れる時間が途轍もなくゆっくりとなった事で、《吾》の思考は一方でぴくりとも動かずに、唯、一点に蹲るばかりなのであった。その代はり、《吾》を訝る《吾》が石ころといふ《存在》の出現により《五蘊場》の平衡状態が崩れ、石ころの《吾》の周りにその《吾》を訝る《吾》が渦を巻き始めたのであった。それは、一つの渦巻銀河の出現の如くなのであった。石ころの《吾》の周りを渦巻き始めた《吾》を訝る《吾》、所謂、《反=吾》は、渦巻く事でStar burst(スターバースト)の如く《吾》たる《もの》の微細粒子が爆発的に出現し、渦巻く《反=吾》に《吾》が無数に出現したのであった。さうして新たな《吾》が相転移を起こして《吾》なる《もの》、つまり、《五蘊場》が一つの渦巻く時空間へと変質を遂げたのであった。
ところが、相転移を遂げた《吾》は、赤子の如く《吾》に対して何事も言葉を発する事が出来ずに、唯単に、
――だぁ、だぁ、だぁ。
と、音を発するのに数年の歳月が必要なのであった。つまり、《吾》が再構築されるのに何年もの星霜が必要なのであった。その間、《吾》の思索は深まらなかったかと言へば、そんな事はなく、《五蘊場》が渦を巻いた途端にぶった切られて抛っておかれた胴体に再び私の首はくっ付いて、《吾》なる《もの》は人形(ひとがた)に再現される事になったのである。或る種の失語症のやうな中に置かれた《吾》は、身体感覚が研ぎ澄まされることに相成ったのである。言語以前のそれらの感覚は、言葉として昇華する事はなかったのであったが、皮膚感覚として記憶される事になるそれらの感覚は、《五蘊場》の渦を更に渦巻かせて身体が何事かを《世界》に対して感じる度毎に小さな小さな小さな《吾》が綺羅星の如くに《五蘊場》に出現し、その《吾》が或る種の記憶素子の如くに記憶を留める役目を果たしたのである。しかし、全体としてそれらの微細なる《吾》共が繋がる回路となるにはまだまだ時の経過が必要であったので、《吾》には無数の言語化されない記憶の断片を抱へ込みながら、只管、《世界》を受容するのを旨とするのであった。それは、外部刺激をのみ感じる事に驚いてゐた時間なのであった。身体の感覚が研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされる程に《世界》と《吾》との合一感は深まるばかりで、それは《吾》にとって快楽として記憶されるのであった。つまり、言葉を獲得する迄、《吾》を肯定する作業を行ってゐたのである。これは《反=吾》が石ころの《吾》の周りに渦巻き微細なる《吾》が爆発的に出現した事から必然の事であり、《反=吾》から《吾》へと相転移した《吾》は《吾》を全肯定する《存在》なのは道理に敵った事態なのであった。
《世界》と《吾》との合一感を育むそれら研ぎ澄まされ行く身体感覚は、しかし、余りに現実的であり、其処に妄想の類が入る隙はなかったのである。これが、《吾》の揺籃期とするならば、私は何年も言葉を発せられなくなった代はりに《世界》と《吾》との至福の合一感の中に《存在》する《吾》に満ち足りてゐて、それ故に言葉の《存在》を敢へて求めなかったのである。
その《吾》の揺籃期は何と満ち足りてゐたのであらうか。此の世に誕生、若しくは出現したばかりの《存在》は、皆、満ち足りてゐる筈に違ひないのである。それは、《吾》なる意味が《吾》とはっきりと意識されずに、さりとて《世界》と《吾》が全く同一の《もの》ではなく、良い塩梅で《世界》と《吾》の距離は保たれていて、それ故に《吾》に対して少しでも摂道し、ずれが生じてそれが齟齬を来した場合、赤子の《吾》は、
――うぎゃあ、うぎゃあ、うぎゃあ。
と泣き喚いて《他》により《吾》の欠乏した《もの》を満たしてくれるのであるから、《世界》と《吾》の間に不和が生じてゐるなどとは考へられ辛いのである。埴谷雄高は赤子が言葉を獲得し、
――うぎゃあ、うぎゃあ、うぎゃあ。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪