審問官第三章「轆轤首」
と謎かけをしては、独りほくそ笑むのである。さうすると、《吾》は、然しながら、余りに不意に《死》すのである。それは、明らかに《幻=世界》の虜になってしまって《外=世界》に対して全く無関心な《吾》の至るべき終着点であり、また、首のみとなって此の世を浮遊する《吾》は、敢へて自ら《自死》の道を選ぶのである。つまり、不意に《死》す《吾》は、因果律の束縛から遁れ出たやうに見えるのであるが、何の事はない、因果律を失ふ事は、不意に《死》す事を受け容れる事でしかないのである。不慮の事故死などは、天災とは別に毎日、日常の事として此の世の何処かで起きてゐて、それに全く無関心な《吾》は、一見因果律の呪縛から遁れたやうに見えて、その実、《存在=死》の如く、《吾》が《吾》に何が起きてゐるのか把握する前に日常の中で《死》んでゆくのである。天災ならば、多少の猶予を与えて呉れるのであるが、人災だとそんな猶予はなく、大概《即死》なのである。つまり、《個時空》で《幻=世界》の楽を追求する《吾》は、或る種の地獄と地続きな本来的な《世界》として出遭った刹那に《即死》するのである。日常から《死》を排除したかに見える《幻=世界》は、何の事はない、《死》を日常に潜ませただけの危ふい《死=世界》、つまり、《黄泉の国》と表裏一体なのである。
しかし、《黄泉の国》と日常は地続きなのは、太古の昔より変はりはないのであるが、しかし、現代社会では、《幻=世界》に閉ぢ籠る故に、そのふり幅が途轍もなく大きく、何の変哲もない日常が一瞬にして地獄絵図に姿を変へるのである。首をぶった切った轆轤首たる《吾》が一度、死神に睨まれたならば最後、確実に《死》すのである。それだけ、肉体と精神が乖離した轆轤首故に、精神に置き去りにされた肉体は、精神の有様に関はらず一歩でも動くと、それは《死》を意味し、つまり、轆轤首と化した《吾》は蝸牛の如くゆっくりとしか動けぬ故に、このSpeed狂の世の中では、肉体程、疎ましい《もの》はなく、肉体の《存在》を忘れられる《幻=世界》で、只管、《吾》に酔ひ痴れるのである。肉体は、殆ど動けぬ故に、《幻=世界》は迫力満点の視聴覚にのみに訴へかる《世界》なのである。しかし、その《世界》はMonitor越し、またはScreenでしか見られぬ《吾》と断絶した《世界》であり、よくよく見ると轆轤首の首のみとなった《吾》は、その《幻=世界》から疎外された《存在》である事が解かるのであるが、《吾》は何時迄もそれに気づかぬ振りをして、只管に《幻=世界》に《吾》を忘却する事ばかりを追求するのである。
しかし、肉体と精神が全く乖離してしまった轆轤首の《吾》は肉体が不動の《もの》へと変容してゆく事には全く無頓着で、もう肉体は為すがままに抛っておくに限るとばかりに、最早、《吾》に顧みる事はなくなって久しいのである。何故にそれが可能かと言へば、全ては《吾》といふ闇を手にした時にその端緒があり、闇さへぺろりと嘗めてゐれば殆どの肉体的な欲求は満たされてしまふからなのである。例へば、食欲や性欲は闇を嘗めてゐればそれは夢想の中で満たされてしまひ残るは精神的な欲求のみなのである。精神的な欲求は、しかし、それはほぼ全てが《死》への欲求に根差した《もの》でしかなく、その出自は既にフロイトによって暴かれてゐるのであるが、それによって善しとしない轆轤首の《吾》は精神的な仮死状態を何度も経験して、これは違ふと、何度も首を傾げては、満たされない《吾》の精神の欲求が何なのかは《幻=世界》の中においては見失ってゐるのである。それは、至極当然の事で、精神的な欲求とは、換言すれば、それは肉体的な欲求の事でしかなく、肉体が仮死状態を味はへば、大概の精神的欲求は満たされるのである。つまり、心身の一致こそが《吾》の窮極の欲求であり、それが成し遂げられるのは、《死》のみなのである。何の事はないのである。《吾》とは元来未出現の《もの》でしかない故に原点回帰が《吾》の憩ひであり、それを単純に成し遂げるには、《死》する事が最も手っ取り早いのである。しかし、《吾》は一方で、それは本当に《死》への欲求で満たされるのかと疑問を呈してゐて、《吾》の欲求とは、詰まる所、《生》への欲求、それは飽くなき欲求に違ひないと思ふのであった。
それは、当然の事なのである。《幻=世界》に閉ぢ籠った故に、《吾》は《生》を生きてた事がそれまで一度もなく、そもそも《生》といふ《もの》を未体験のまま《幻=世界》に反映されてしまふ故に、何時迄経っても《幻=世界》において《吾》は《吾》の望みを満たされる事はないのである。《幻=世界》といふ余りに個人的な孤立した《世界》において、その《世界》の造化は、徹頭徹尾、《吾》であり、しかし、をかしな事に《吾》は未来永劫に亙って《吾》に対して満足する事はなく、《吾》に満足を齎す《もの》は、《神》であり《自然》に外ならないのである。つまり、それは、徹底的に《吾》の思ひとは無関係に齎される僥倖の如き《もの》で、それには徹底的に《吾》が疎外された形で成し遂げられる《もの》なのである。それは何故にかと言へば、所詮、《吾》が考へる事は、底が知れてゐる程に浅薄な事でしかなく、それに全く深みはないからなのである。《神》の、《自然》の為す業は《吾》から見れば嘆息しか出ない素晴らしい《もの》で、それに《吾》がいくら対抗しようとしても骨折り損のくたびれ儲けなのである。つまり、《吾》がいくら手慣れた業を持ってゐようが、《神》、または《自然》の諸行には敵はないのである。
つまり、《神》、若しくは《自然》と《吾》との対決は関しては、初めから勝負は決まってゐて、《吾》が《神》、若しくは《自然》に敵ふ筈はないのである。然しながら、轆轤首の首をぶった切った《吾》は、此の《世界》の転覆ばかり妄想するのである。それが、《幻=世界》相手ならば至極簡単に出来さうな《もの》に一見思へるのであるが、《幻=世界》の転覆はそもそも不可能なのである。何故ならば、《幻=世界》の転覆とは、即ち《吾》の転覆に外ならず、《吾》が《吾》の転覆を試みた処で、そんな猿芝居のお足は知れてゐて、また、そんな事は口が裂けても言へる《もの》でなく、そして一度、そんな馬鹿げた妄想に酔ひ始めると、《吾》は益益、《吾》に酔って、《幻=世界》に惑溺するのである。
しかし、《他》に全くぶつからないその《幻=世界》に《存在》する《吾》のあり方を訝る《吾》がゐないでもなかったのである。《吾》が伸び切った首をぶった切った刹那、《吾》を訝る《吾》の《存在》に気付いてゐる筈なのであった。その《吾》は、只管に黙して語らぬ《もの》として《存在》してゐたのであるが、その沈黙が不気味に《吾》には感じられ、しかし、《幻=世界》に楽を見出してしまった《吾》は、その沈黙して何も語らず、《吾》の頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》に闇のまま闇と同化して蹲るその《吾》を本能的に訝る《吾》に、
――しまった! 見られた!
と思はず不意を衝かれて楽を堪能する《吾》は、闇と同化した《吾》の目には全く見えぬながらもその《気配》は感じ取ってゐた《そいつ》、つまり、《吾》の睥睨にぎくりとするのであった。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪