小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

審問官第三章「轆轤首」

INDEX|29ページ/47ページ|

次のページ前のページ
 

 何もぶつからないといふ事は、或る種の悲劇に違ひなく、其処は永劫に《他》は《存在》しないといふ事を意味するのであった。ぶつからないといふ事はさういう事なのである。つまり、何にもぶつからない《吾》は、遂に《他》の《存在》を《個時空》から追ひ出したのである。《吾》は《反=存在》と化す事で《他》の《存在》から遂に逃げ果せたのである。しかし、闇を嘗めながら独り幻の中で右往左往してゐる《吾》には《他》を《個時空》から追ひ出した事には全く思ひ至らずに、只管、幻覚の中でドン・キホーテの如くサンチョ・パンサと共に化け物と格闘してゐるのである。それは、轆轤首たる《吾》にとっては紛れもない《他》であって、実体ある《他》よりも幻の《他》の方が始末に負へない難物なのは、《吾》が《死》すべき、否、《吾》が《死》んでも尚、《吾》に付き纏ふ幻の《他》は、しかし、既に《死》した《もの》の類に違ひないのである。つまり、轆轤首が犇めきながらも互ひに全くぶつからない《個時空》にゐる《吾》にとって《他》は《吾》のみにしか見えない《存在》であり、奇妙な事に《吾》はその事に薄薄気が付いてゐるのである。《吾》の《個時空》は糸が切れた凧の如くに《世界》がぶち切れた《もの》で其処には実体ある《存在》は、最早、《存在》しないのであるが、しかし、《吾》は幻にのみ戯れる事を無意味と気付きながら、それを已めようとはしないのである。何故なら、それが楽だからである。それ故に《吾》は敢へて《個時空》を外部に開かずに内部にのみ目を向けさせる事で自足するだけで、意図してゐるのかどうかは解からぬが、しかし、《吾》を内部にのみ拘泥させる事にかけては、絶妙この上ないのである。それは、《吾》が闇をぺろりと嘗めて、麻痺してしまった感覚において、最早、《他》に対応する事は不可能なのである。不感症。「現存在」たる轆轤首にとって《吾》を端的に言へば、それは不感症の《存在》なのである。それは当然の事である。ぐっと首を伸ばしに伸ばすには、既に《吾》の感覚は麻痺してゐなければ不可能で、蜿蜒と人工の紋切り型の《世界》が続く郊外で生きてきた轆轤首にとって己がその《世界》で存続させる為には、感覚を如何に麻痺させるのかの競争に時代は突入した事に知らぬは《吾》ばかりなのである。その結果、《吾》が不感症なのは、必然で、不感症となり、無感覚でなければ、《世界》の中では、生き残れなかったのである。それは、何とも皮肉な事で、楽を追求する事は、不感症になる事であったのである。しかし、時既に遅きに失し、最早、元には戻れない処まで、事態は進行してしまったのである。肉体と精神の埋めようもない乖離は、事此処に至りて、ぶった切られてしまったのである。つまり、轆轤首は自らその首をぶった切って《吾》を浮遊する《もの》とする事で辛うじて此の世に《存在》出来得たのである。一見それは哀しい事のやうに思へるのであるが、さにあらん、《吾》は楽を飽くまで求める故に喜んで《吾》は首をぶった切ったのである。さうして拓けた《世界》は徹頭徹尾《吾》の幻覚の《世界》であり、その《世界》はとにもかくにも楽なのである。何故に楽なのかと言へば、《吾》の匙加減で《世界》は如何様にでも変はる事に首のみと化した《吾》は知ってしまったからである。しかし、それは、大いに矛盾してゐる事で、幻がそもそも《吾》の匙加減でどうにでもなるならば、幻の《他》もまた、《吾》の匙加減でどうにでもなる筈なのであるが、事態はさにあらぬのである。或る種の被害妄想に囚はれた《吾》は、見渡す限り人工の《世界》に生きる事を強要された《吾》にとって、《世界》、若しくは《他》は存続する《吾》を襲撃する《もの》としてしか最早把握出来ないのである。
《世界》の襲撃は何時も不意である。《吾》は不意に滅する事が日常に変じてしまった現代において、自然災害ばかりでなく、不慮の事故によっても不意に《死》すのである。それが毎日、時と場所を変へて起きてゐて、《吾》は「現存在」の《他》の《死》に対して、最早、薄情な程に無関心で、つまり、《吾》は不感症に陥ってゐるのである。しかし、不感症はDemerit(デメリット)ばかりでなく、途轍もない効能があるのである。それは、何度も言ふが楽を《吾》に齎すのである。《吾》の幻覚の中に立ち現はれる《他》は、既に《吾》に解釈された何かであって、それは、決して謎である「現存在」としての《他》ではなく、《吾》が思ふ事を率先して行ふ幽霊の類の何かなのである。それは、《吾》が轆轤首である事と無関係ではなく、《吾》が異形の《もの》に変化したといふ事は、《世界》に何《もの》にもぶち当たる事なく孤軍奮闘するといふ、第三者の眼から見れば全く馬鹿げた振る舞ひに終始する被害妄想の域から一歩も出ずに、《個時空》を空回りさせながら、不意に《死》すのである。既に、轆轤首の首を自らぶった切った《吾》は、最早、重力の魔から遁れ出て、地から浮遊して、ゆらりゆらりと街を彷徨ふのである。然しながら、その街は既に此の世には《存在》しない架空の街でしかなく、《世界》は完全にその出自を失ふのである。それでは、その《吾》にのみ有効な《世界》とはどんな《世界》かと言へば、それは、一見《吾》の意思とは無関係に《もの》が《存在》してゐるやうに見えながら、裏では、《吾》の意思一つでどうにでもその相貌を変へる《吾》と連動した《幻=世界》なのである。其処には当然、《存在》は《存在》せず、《非在》ばかりがあるといふ皮肉な《世界》があるのみなのである。
 自ら首をぶった切った轆轤首の《吾》は、本来的な《世界》とは無関係に脈打つ《個時空》といふ《幻=世界》を携へながら、自らの幻に陶酔するのである。それが、首をぶった切った痛みを止める鎮痛剤、否、麻酔薬に違ひなく、《吾》の《幻=世界》を表象させる悪循環に自ら進んで突き進む《吾》の悲哀は、誰の眼にも明らかなのに、しかし、《吾》のみは、それが悲哀に満ちてゐるなどと微塵も思はずに、只管、その《幻=世界》に対して、
――《吾》とは何ぞや?