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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 仮想空間を獲得した「現存在」、即ち、轆轤首は、それでは何を根拠にして物質を「現存在」の完全な奴隷と看做せるやうになってしまったのであらうか。つまり、「現存在」は文明の中で生活する限りにおいて、誰もがブルジョアジーとして物質に備わってゐる或る特性を最大限「現存在」の都合に合はせて利用して、高度な科学技術により生まれし機器類を「現存在」の奴隷として使ひ捨てする疚しさを何時頃から感じなくなったのであらうか。そして、「現存在」は何時から己が轆轤首である事を肯定し、それが恰も自然な事のやうに倒錯する事が可能になったのであらうか。
 などなど、数へ上げたなら切がない疑問の数数が湧いて来るのであったが、詰まる所、それは、私の問題であって、私は現状をちっとも肯定出来ずにゐながらも、文明から隠遁する事も出来ない唯の小心者で、それ故に私は現実に対して憤懣やる方無しの、全く幼稚な《存在》でしかないのであった。
――哀れなる哉、《吾》を受け容れられぬ《吾》を生くる《吾》といふものは――。
 つまり、私は、現状に憤懣してゐながら己を憐れんでゐるだけの醜い轆轤首に過ぎず、尤も、私はPersonal computer以外のIT機器は極力使はぬやうにはしてゐるが、しかし、それは《吾》が《吾》に関する憤懣と憐れみに対しての虚栄を精一杯張ってゐるに過ぎぬのであった。要するに、私は己が轆轤首である事を受け容れられずに、絶えず《吾》に対して《吾》は齟齬を来たし、《吾》は何時も《吾》に躓く莫迦な《吾》でしかないのであった。
――成程。
 私が轆轤首であるのは、私の頭蓋内の脳といふ構造をした闇たる《五蘊場》――私は脳絶対主義のやうな現状を受け容れる事が出来ずに、脳がある頭蓋内の闇を《五蘊場》と名付けたのである――に明滅する表象群を見てしまふ事そのものに、既に「現存在」がぬうっと首を伸ばして世界の至る所に行ける轆轤首たる存在の淵源があるのだ。
 仮想空間と《五蘊場》との親和性は見事と言ふ外ない程に相性がよく、つまり、頭蓋内の闇たる《五蘊場》で発火するNeuronも電気信号ならば、仮想空間も、また、電子的なるものとして表出され、それは、つまり、脳の外部化とも言へる事象であって、敢へて言へば、「現存在」は仮想空間に《吾》の脳を仮初に置いておく《場》にすらになってゐて、それは私が脳を幾つも持つ百面相にも変化してゐる事に外ならないのであった。
――ふっ、百面相の轆轤首か……。
 仮想化といふ世界を手にした事で一気に拡大する脳といふ幻想をも含有した《五蘊場》は、しかし、よくよく見ると仮想世界は五蘊でなく、色(しき)がすっぽりと抜け落ちた《四蘊場》でしかないのである。つまり、色の喪失してゐる故に「現存在」は轆轤首になる事が可能なのであって、換言すれば、轆轤首以外は仮想空間といふ世界の住人には為れず、また、巨大化した意識体の化け物、つまり、意識の百面相は、一方では、分身の術を身に付けてそれを如何なく発揮しみせては、《吾》であらぬ《吾》といふ《存在》を知ってしまった憐れなる轆轤首と言へなくもなく、仮想世界に仮初にも《存在》する《吾》の分身は、尤も、《吾》がそれを肯定するしないに拘はらずに、次次と生み出され、そして、《吾》の分身は、只管、消費されゆく憂き目を味はふ事に為るのであったが、それに限らずに、実際、《四蘊場》を《五蘊場》にさせるべく殺戮を以てして強引に《五蘊場》に変化せしめる事で、仮想世界の《存在》を現実に刻印するべく悪鬼の出現すらをも覚悟すべき、脳のみが非常に拡大した《四蘊場》の暴走は、止めどなく、只管に拡大するばかりなのである。
 さて、右記の事より轆轤首は、《存在》を殺戮するに至ると、それは首が一つの轆轤首では最早なく、例へば双頭の蛇、若しくは八(やま)岐(たの)大蛇(おろち)にすら、もしかすると既に変化してしまってゐると看做せなくもないのである。しかし、《四蘊場》に《生》の愉悦を知ってしまった《もの》は、轆轤首が一瞬にして八岐大蛇に変化する恐怖を心底知ってゐる筈の《四蘊場》に棲息する《もの》は、例へば日本蜜蜂が雀蜂を集団で殺すやうに、仮想世界に浮遊する轆轤首共は徒党を組んで特定の轆轤首を血祭りに上げる恐怖統治で、轆轤首が八岐大蛇に変化する恐怖を抑へ込んでゐると思はれるが、しかし、徒党を組んだ《四蘊場》に《生》の快楽を見出した轆轤首を傍から見れば磯巾着(いそぎんちゃく)の如く、触手が首へと変化したメドゥーサの頭の如き新たな化け物と化してゐる事に全く無頓着で、その新たな化け物は合従連衡を繰り返して、或る時は、社会変革の原動力に為り得る可能性を秘めてゐる故に、それは絶対君主制すらをも生み出す呼び水にすら変化してゐるのである。
 それでは、「現存在」が己が轆轤首で、そして、徒党を組んだ多頭の磯巾着の化け物へと変化してゐる自覚がない《五蘊場》に《存在》する「現存在」は、世界から飛び出すに至って《新人=神人》として、此の世に坐すに至ったかと自問自答した処で、茫洋とした虚無感ばかりが胸奥の深奥に吹き荒ぶばかりなのである。詰まる所、《四蘊場》の仮想空間に仮初に《存在》した処で、その《四蘊場》を己の自在のままに変化する《四蘊場》、つまり、何かを此の世の《五蘊場》の世界をも一変させる《四蘊場》の仮想空間は、絶えず色を欲望せずにはをれず、此の色が欠落してゐる《四蘊場》たる仮想空間には、《五蘊場》に明滅する表象群を書き、若しくは描き出す事でのみ轆轤首は十全たる満足を味はふのである。
 つまり、《四蘊場》での自己の意識は、途轍もなく巨大化したのであるが、それが返って《吾》の充溢を遠ざけるのみで、《四蘊場》の仮想空間は、成程、知識と情報には事欠かないが、「現存在」は轆轤首、若しくは数多の首による磯巾着の化け物であるには、《吾》すらをも仮想化する暴挙が必須で、それに疲れ果てた轆轤首は、最後には、Monitor画面を紙としてのみの機能があれば、大満足である事を知って、一時は愕然とするのであるが、しかし、さうであるからこそ「現存在」は轆轤首に変化可能なのもまた確かなのである。
――早く人間になりたい。
 これが《四蘊場》の轆轤首の呻きなのである。