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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 と、尚も頑強に主張する《もの》も、それではその《吾》とは何ぞや、と問はれてみると、何《もの》も最早、答へに窮するのである。つまり、此の世の一番の謎は、《吾》と為ってしまったのである。そして、《吾》の内部では、
――うふっふっふっふっ。
 と、ほくそ笑む何《もの》かが不意に現はれて、《吾》をからかひ始めるのであった。
――《吾》とは如何程の《もの》かね? ちぇっ、それすらも解からないとすると、《吾》とは、随分蒙昧になったもんだ。ほれ、《吾》を喰らってゐろ!
 と、闇が差し出されたのである。差し出された方は一瞬茫然と天を仰いだのであるが、しかし、ままよ、と、その的を射た答へに感服し、
――成程、《吾》とは闇に違ひない。
 と、その闇にしゃぶり付くのであった。そして、その闇の味といったら、無味乾燥で《吾》とは何と不味い《もの》なのだらう、と今更ながら気付くのであった。
 さうなのである。《吾》は不味い闇に外ならないのである。それは、まるで綿菓子を絡め取る如くに眼前に差し出された闇を絡め取り、そして、ぺろりと嘗めるのである。そして、
――何ぢゃ、こりゃ?
 と、《吾》の不味さに目が眩むのである。その伸ばし過ぎで、遂に《吾》を見失ってしまった《吾》に差し出された闇の不味さに、
――この闇から果たして《吾》なる《もの》は生まれ出づるのか?
 と訝りつつも、それでも何かが生まれるかもしれぬと淡い期待を抱きながら、闇を喰らふのである。さうする事でしか、《吾》が《吾》である不安から遁れられずに、これもまた《吾》に為る修練だと肚を据ゑて、只管に、《吾》なる轆轤首は闇を喰らふのであった。
 しかし、闇をいくら喰らっても、闇は増えも減りせず、元のままの闇として《存在》するばかりであった。そして、闇は幻覚剤の如くに首のみと化した「現存在」に作用し、幻を闇に浮かべるのであった。そして、あんなに不味かった闇が、或る時を境に美味しくなるから不思議なのである。しかし、幻覚の《世界》から食み出る事は不可能で、それは例へば、目が覚めるまで、それが悪夢であらうが、夢が覚めないのと同様に、《吾》は絶えず幻覚の《世界》にゐて、闇を一嘗めぺろりと嘗めれば、幻覚が現はれ、最早、《吾》はそれに鷲摑みにされて何時しか闇の虜になってゐるのである。
 当の《吾》は、しかし、己が見てゐる《もの》が幻覚であるとは微塵も思ひもせず、それが現実の《世界》であると信じて疑はないのである。街を歩いてゐると、突然、声を出して喋り始める人間の如くである。つまり、街中で突然に話し出す人は、携帯電話かSmartphone(スマートフォン)に話してゐるのである。その事情が全く呑み込めぬ私は、その不穏な様に、たぢろぐのであるが、瞬時にその事情が呑み込めた私は、何をびくびくしてゐるのかと自嘲するのである。しかし、闇の虜となって幻覚を喰らふのが私における《吾》の《存在》の仕方なのである。夢において《吾》は眼前で起きてゐる事に疑ひを持たずにどんな不自然な状況でもそれを受け容れ、疑ふといふ《もの》を何処かで喪失してしまった哀れな《存在》に成り下がってしまったのである。つまり、轆轤首にとっては、実体はあってもなくても別にどうでもよく、映像として《世界》が成り立ってゐれば、それが全てなのである。轆轤首が既に異形の《もの》なれば、それは必然であって、轆轤首とは何の事はない、《世界》が自己完結してしまった閉塞の状態の事に過ぎぬのである。
 ところが、現実といふのは、酷い《もの》で、或る日、突然に《吾》に牙を剥き、襲撃するのである。幻覚に酔ひ痴れた《吾》は、さて、何が起きてゐるのか全く解からずに、不意に絶命するのである。その死に様が何とも痛痛しく、哀れに思ふのであるが、遂に、死すまで、幻覚の中から出られなかったその轆轤首は、ところで、何の為に、生きてゐたのか皆目解からず、また、《他》の轆轤首にとって《他》の《死》は、最早、何の恐怖も齎さずに、誰にとっても無関心な出来事として、片付けられる運命にあるのである。そもそも幻覚の中に閉ぢ籠った《吾》において、現実は、あってなきが如く有名無実な《もの》と化してゐて、誰の《世界》も摺り合はせが行はれていない為に《世界》は轆轤首の数だけてんでんばらばらに《存在》し、それは所謂、対幻想には決してならない類の何かに全く変質してしまってゐるのである。
 そして、轆轤首は《個時空》としてしか呼べない独りぽつねんと大海にゐる事すら気付かぬ《もの》として、《世界》の中に《存在》するのである。時代は何時しか全肯定の時代に突入し、何《もの》も、最早、《世界》に対して疑ふ事を已めてしまひ、《個時空》の中に閉ぢ籠っては突然、
――ぶはっはっはっはっ。
 と嗤ひ出すのである。それがいかに不自然だらうと、最早、誰も《吾》の《個時空》に興味などないので、仮令、《吾》が嗤はうが、そんな些末な事に関はる暇を失くした轆轤首の有象無象がうようよしてゐるのである。ところが、《世界》は、最早、共通項といふ対幻想が成り立たない状況下で、いくら轆轤首が《存在》しようがそれらは、全くぶつかる事がなくするりするりとすり抜けて、幻覚のみが絶えず《吾》の眼前に《存在》するばかりなのである。何《もの》にもぶつからぬといふ事は、轆轤首にとって《他》は《非在》なる《もの》としてしか、最早、表象されないのである。