審問官第三章「轆轤首」
地を離れた超高層Buildingに住まふ「現存在」は、意識として体軀は、地面に残したままで、首のみを超高層Buildingに潜入させてゐる哀しい姿として、此の世に現はれてゐて、また、超高層Buildingは地上から離れてゐる故に、その分、地上よりも早い速度で公転してゐる筈で、しかし、一方で地上から離れてゐる事で、その事から特殊相対性理論より地上よりも離れれば離れる程に時間の流れは速くなり、つまり、超高層Buildingは敢へて言へば、それはほんの一寸の時間差に過ぎぬが、或る種のTime Machineと言ってよく、超高層Buildingの住人は、絶えず《現在》よりも早く年を取る、つまり、早く老けるのが科学的な結論なのである。つまり、超高層Buildingにおいてその不自然極まりない時空間に過剰適応したのが、轆轤首としての「現存在」であって、それ以外の「現存在」は、超高層Buildingの不自然さに堪へられる筈もなく、また、徹底的に自然性を喪失してしまった超高層Buildingの住人達が、真っ当な「現存在」である筈はなく、皆、そんな不自然な《世界》に《吾》の居場所を見出す「現存在」の鬼子が、現在、《存在》してゐる数多の「現存在」の普通の有様なのである。自身が「現存在」の鬼子、即ち、轆轤首である事にてんで思ひ至らぬ「現存在」こそが、現在の最先端を生きる「現存在」のありふれた様相なのである。
現代とは首のみ重宝される無慈悲な時代なのである。「現存在」は絶えず実験動物の如く常に更新されゆく文明の利器に囲まれた流動的な《世界》に置かれ、その《存在》を無理矢理試されるのである。其処で適応出来なければ、それは既に無能《もの》としての烙印が押され、《世界》に潰される《存在》なのである。それ故に「現存在」はこの首のみが重宝される時代に過剰適応して見せることで、自身の存在価値を測る尺度にしてゐたのである。その結果、「現存在」は轆轤首と為って、此の世を浮遊し始めたのである。嘗ては、「現存在」の闊歩する跫音が聞こえた街には既に「現存在」の跫音はなく、不気味に首のみがぬっと伸び行く奇怪な《世界》が出現する事に為ったのである。何処も彼処も首、首、首なのである。
「現存在」は、環境が全て、人力を超えた《もの》で造られた時点で、「現存在」は轆轤首に為る事を宿命付けられてゐたのである。「現存在」はそもそも人力以上の事象に対して戸惑ふばかりで、しかし、慣れといふ《もの》は恐ろしい《もの》で、人力を超えた《もの》に包囲されると「現存在」はそれに見事に適応して見せて、そんな物騒な《世界》、つまり、移動するにせよ、建物を建築するにせよ、仮想現実に遊行するにせよ、そのいづれもが「現存在」を《死》へといも簡単に追ひやり、その時、死亡する「現存在」は人力以上の負荷がかかるので、その死体は無惨な《もの》となる外なく、それでも、「現存在」は高度科学技術文明、且つ、高度情報化社会に順応する事ばかり強ひられるのである。それが異常な事は、誰にとっても暗黙裡に了解されてゐながら、誰もが最早言挙げる事を断念し、誰もが《世界》の変化を文句も言はずにそれをすんなりと受け容れるのである。それが、どんなに虚しい事であらうがである。
さて、首のみをぐっと伸ばした轆轤首の「現存在」は、己の事を鑑みては己にぽっかりと空いた間隙に何時でも陥落する危ふさもまた持たざるを得ず、《吾》が闇に包まれた深海の水底に屹立する古木と看做す事で、辛うじて《吾》を保持する事が可能で、しかし、その実は、《反=吾》、若しくは《異形の吾》にきりきりと締め上げられ、盆栽の古木に過ぎず、その反動として己を過大評価せずば、この人力を超えた《世界》では生きてゆけないのである。何事をするにも人力を超えた《もの》によって《吾》は《吾》の事を誇大化する事で、やっと精神的平衡を得てゐるのである。
世はSpeedの時代である。そのSpeedは既に人力を超えて久しいが、そのSpeedに堪へられない「現存在」は、容赦なく取捨選択されて、Speedの世に巧く適応出来た「現存在」のみが、掘っても掘っても湧いてくる時間に翻弄されたSpeedの時代にせせこましく生きるのである。それに見事に適応したのが轆轤首の「現存在」で、肉体は既に世のSpeedに付いてゆけず、首のみが、つまり、意識のみがSpeed狂時代に適応する外に「現存在」の《存在》はあり得ない筈なのである。
例へば、自動車に対して肉体は適応出来ず、事故が起きれば、肉体は無惨な死体を晒すのみで、さて、その時は意識もまた、絶命するのであるが、しかし、《吾》といふ《念》が永劫に《存在》すると敢へて看做すと肉体と精神の齟齬は現代程酷い時代は有史以来初めてに違ひなく、それ故に、意識のみが肉体から離れた轆轤首の《吾》が出現する事に為ったのである。とはいへ、「現存在」は《吾》が轆轤首である事は露知らず、今尚、肉体と精神は太古の昔より此の方一切変はらずに《存在》してゐると思ひ込み、何の根拠もない先入観の中に安穏としてゐるが、しかし、その実は、首と胴体は伸び切る迄に伸び切った危ふい状態にあり、精神は肉体から何時でも分離するべく、肉体の隙を狙っては、絶えず首をぐっと伸ばして、肉体を置いてきぼりにする事を目論むの《もの》なのである。
さて、それ故に伸縮自在となった首を持つ轆轤首は、現代に過剰適応した事で、首のみで構はぬと開き直る事で《吾》なる袋小路の状況を打開するべく、轆轤首は、
――《吾》、轆轤首なり。
と宣言する事に為ったのである。
轆轤首が轆轤首であると開き直る事でしか、現在といふ苦境を乗り越えられぬ事が一度理解されると、生き延びる為には、轆轤首に変化するのが利口《もの》のする事だと嘯きつつも、《存在》の居心地の悪さが不安でならないのである。意識と肉体の絶望的な乖離の埋め難さに《吾》は唯唯、溜息を吐くばかりで、既に収拾不可能なこの意識と肉体の絶望的な乖離を目にする度毎に轆轤首は、唯、茫然とするしかなく、また、だからと言って何をする訳でもなく、つまり、為す術なく、《吾》の現状を渋渋と受け容れるのであるが、しかし、轆轤首たらむとする《吾》ではある一方で、轆轤首である事に不慣れな《吾》は、さて、最早、足下すらも見る事が不可能になりつつある中、後ろを振り返る事に堪へられず、只管に前のみを睨み付けながら、首のみを更にぐっと伸ばすのである。《吾》は然しながら、それが《吾》の壊滅を早める事であるとは、漠然と感じながらも、最早、前進することが已められないのである。それは、例へば時間の不可逆性と同じ種類の《もの》に違ひなく、轆轤首と一度、居直った《吾》は、最早、《にんげん》に戻れないのである。そして、此の世は「現存在」の怨嗟で満ちる事になったのである。何処も彼処も、
――《吾》は何処か?
といふ、最早、誰にも答へられぬ問ひを発しながら、首のみをぐっと伸ばし続けて、遂には《吾》の肉体を見失ふのであった。つまり、《吾》の出自は現代では行方不明となってしまったのである。
――《吾》とは《吾》だ!
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪