審問官第三章「轆轤首」
しかし、言葉を喰らふばかりの《存在》として《五蘊場》の中に閉ぢ籠る《吾》は、唯唯、虚しいだけなのもまた事実なのであった。それは、途轍もない虚無感で、その点でも《吾》は、内部から腐乱し始めてゐるのは間違ひなく、さうやって、《吾》を浪費する事でのみ、やっと《吾》は《吾》の《存在》を受け容れるのであった。否、受け容れる外なかったのである。何故ならば、自意識が芽生える以前に《吾》は《吾》として既に《存在》してをり、その《吾》を仮初にも全否定した処で、自殺する事位が関の山であって、《吾》が死なうが《世界》は痛くも痒くもないのである。つまり、《吾》が《吾》の《存在》を認識する時は、既に《吾》は《世界》に対してそれとは気付かずに反旗を翻してゐるのである。
――何時か、《世界》を転覆させる!
と、自意識に目覚め、自意識に苛まれる思春期に既にそのちっちゃな胸奥で呟いてゐた事に、後後気付いて、にやりと嗤ふ《吾》に、《吾》は尚更胸糞悪く、そんな《吾》を侮蔑せずにはをれぬのである。つまり、《吾》は《吾》を侮蔑しては《吾》を唾棄する堂堂巡りを繰り返して、その何時果てるとも知れぬ《吾》の《吾》に対する鬼ごっこを蜿蜒と繰り返すのである。その虚しさは言はずもがなである。
では、そんな鬼ごっこなんて已めちまへ、とは思ふのだが、何せ《吾》に関する自己に《吾》は一時も《吾》から遁れる術を持ち合はせてをらず、仮令、瞑想が《吾》が《吾》を追ひかける無間地獄から抜け出す方法であっても、その瞑想してゐる《吾》を《吾》は受け容れられず、《吾》は懊悩の塊と化して、只管に《吾》を追ひかけるのである。さうせずには、《吾》の《存在》が危ぶまれる疑念が何時も《吾》の頭蓋内の《五蘊場》に去来するのである。そんな事はないと《吾》を宥めてみた処で、それは、必ず失敗に終はるのが常で、《吾》が《吾》から遁れる異形の姿が轆轤首に違ひないのである。
首のみをぐうっと伸ばしたその異形の姿は、高度科学技術で高度情報化の社会が《吾》に迫った《もの》に違ひなく、また、《吾》が轆轤首である事を許したのは、その社会、つまり、何処の誰とも知れぬ《他》、それは《神》ではない《他》の手によって弄り回された《世界》の残滓によってである。《吾》が此の世に《存在》してゐた時には既に《世界》は現代の荒波に揉まれて、その原始の姿は全くなく、郊外といふ全く人工的で無味乾燥な《世界》で生きる事を強要された《存在》として既にあった事に、《吾》の根無し具合を鑑みては、何時も忌忌しく思ふのであるが、それすらをも忍辱しなければならなかった《吾》の有様は、《自由》を欣求するのであれば、頭蓋内の《五蘊場》に逃げ込む外なく、さうして《世界》と断絶してしまった《吾》の有様を思ふと、尚更、《吾》は《吾》を嘲笑するのであった。多分、私はさうする事で《吾》を呪縛する《世界》へと無理矢理に適応する事を思ひ留まらせ、その呪縛から遁れられるのではないかと、当てずっぽうに思ひ込みながら、生を送るといふ余りにも虚しい人生に見切りをつけて、只管に《五蘊場》に閉ぢ籠りながら、《吾》は、詰まる所、《吾》を人質にとって、《五蘊場》に籠城する事に相成ったとしか言ひ様がない、そこはかとない忸怩たる思ひの中に沈思するのであった。ところが、こんな事は、《吾》の専売特許などではなく、《他》もまた、同じやうに虚妄の中に己の生を見出し、《他》もまた、深い懊悩にありながら、しかし、巧く《世界》に、全くの人工的な《世界》に適応して見せて、充足したやうに見える生を送ってゐるとしか《吾》には見えない憾みを抱きつつも、《吾》は《他》に付和雷同する事で、何とか《世界》に《吾》の居場所を見出す事になるのである。
さうして《他》があらゆることの基準となってしまった此の《吾》といふ《存在》は、巨人族の喪失が何をおいても、その《吾》の思考法に暗い影を落としてゐて、「現存在」を超越した《存在》、即ち、《神》の喪失とは、郊外といふ人工の《世界》で生きるを得なかった「現存在」にとっては、見果てぬ夢に違ひなく、「現存在」の事しか、それも不十分に「現存在」の《存在》のみしか念頭にない郊外といふ不自然な《世界》に追ひ詰められた「現存在」にとって《吾》とは、紋切り型として大量生産される「世人」の事であって、《死》は、或る日、突然にやって来る異界と化して《死》の場所すらをも排除してゐたその郊外といふ不自然な時空間が、仮に「現存在」が夢見た「理想郷」であったとしても、其処で幼児期から《存在》させられた子供にとっては、何処も彼処も《吾》の隠れる場所はなく、《世界》に対して生身のまま対峙する外なかった「現存在」にとって、郊外は、何時しか脱出すべき場所へと変貌するのは、当然の事なのである。
「現存在」が主人公の郊外といふ不自然な《世界》において、幼児期から其処で生きる事を強要された「現存在」は、然しながら、哀しい事に、その不自然な人工的な世界に過剰適応してしまひ、さて、その帰結が「現存在」の轆轤首への変容なのである。何故に轆轤首なのかは、今迄に既に述べてゐるのでもう語らないが、「現存在」の視聴覚のみに特化した歪な《世界》の状況に対して「現存在」は、轆轤首へと変容するしか生き延びる事は不可能であったのである。そして、その轆轤首は、如何に凡庸であるかが問はれるといふ本末転倒した皮肉に満ちた《存在》の有様を強ひられ、変はり者は郊外から追はれる事になったのであった。しかし、原風景としての不自然な郊外が、頭蓋内の《五蘊場》に居座ってゐる限り、何処も彼処も「現存在」が主人公のぺらぺらな《世界》が此の世であると、《世界》といふ《もの》を無意識裡に見下してゐる事に気付かぬままに、《世界》に対して無謀にも、無防備に対峙する愚行をやってのけるのである。それは、はっきり言って莫迦がする事で、郊外は、詰まる所、莫迦者しか生み出さない時空間なのである。その結果、現在起きてゐる事は、超高層Buildingが林立する都心回帰の動きなのであるが、この超高層Buildingが曲者で、敢へて言へば、超高層Buildingに住まふ《もの》こそが、轆轤首と化した「現存在」であるといふ事である。何故に轆轤首なのかと言へば、それは、明らかで、「現存在」は、科学技術を信頼しきってゐる故に超高層Buildingに住まふ事が可能であり、高度科学技術が生み出した現代といふ不気味な居住空間に轆轤首しか《存在》出来ぬのが道理なのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪