審問官第三章「轆轤首」
と、嗤ふのであった。それは真に嫌な嗤ひなのである。何故に《反=吾》、若しくは《異形の吾》が嗤ってゐたのか、《吾》にはすぐには見当が付かぬ故に気色悪い嗤ひなのであった。しかし、それは、多分に《吾》が表象群の明滅によって《反=吾》、若しくは《異形の吾》もまた、一寸前に気配を消してしまった《吾》の姿、若しくは面を見てしまったに違ひないのである。さうでなければ、《吾》に態態聞こえるやうな、嫌な嗤ひは起きる筈はなかったのである。あの《吾》が気配を消したのは、つまり、《反=吾》、若しくは《異形の吾》に《吾》の素顔が見られてしまった事による恥辱から来てゐるのではないかと、《吾》は暫くすると合点がゆき、さう思ひ為しては、《吾》の素顔はどんな素顔をしてゐるのかと興味津津で、それは、つまり、《吾》の思考とは、如何に一つの事をぢっと考へられぬ事かと、既に首をぐっと《吾》の気配がした処へと伸ばし、闇のみを凝視するので、《吾》の好奇心旺盛の節操の無さに苦笑するのであった。すると、《反=吾》、若しくは《異形の吾》が、
――いっひっひっ。
と、嘲笑するのであった。その嘲笑は残響を長く《五蘊場》に残し、何時迄もその木霊が聞こえるのであった。《吾》は、さうすると、唯、瞼を閉ぢて、独り闇に遁走しては、《吾》といふ巨木は、外皮のみでがらんどうになってしまったとはいへ、上部や枝葉では、未だに自己増殖して、《吾》が《反=吾》、若しくは《異形の吾》の嘲笑の木霊を聞きながら瞼を閉ぢると、《吾》といふ巨木の年輪が一つ刻まれるやうになるに違ひなかった。
すると、《反=吾》、若しくは《異形の吾》の《吾》の巨木に纏はり付いてゐる蔦は、更にぎゅっと《吾》を締め付けて、《吾》の肥大化を矯正し、《吾》を盆栽の何百年もの古木の如くに《反=吾》、若しくは《異形の吾》の閉め加減一つで、如何様にも変形する《吾》の虚しさにやうやっと気付くのである。成程、《吾》は、《吾》自身で己の事を巨木か、若しくは巨大磯巾着の如く看做してゐたが、実は、盆栽の木の如く何百年も小さいままに年輪を重ねた古木なのかもしれず、さう考へると、妙に納得する《吾》がゐるのであった。
――いっひっひっ。
さうすると、《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、盆栽の木に巻き付けて、その姿を強要される太き太き太き針金の如き《もの》かもしれず、首のみをぐっと伸ばしてゐた轆轤首の《吾》は、太き太き太き《反=吾》、若しくは《異形の吾》の針金によって、首の姿を《反=吾》、若しくは《異形の吾》の思ひのまま、さもなくば、《神》のやうな《存在》により、太き太き太き針金を首に巻き付けられて、姿を強要された《吾》といふ《もの》を見出す筈であるが、己の事を深海の水底に屹立する中ががらんどうの巨木とばかり想定してゐた《吾》は、其処で不意に沈思し始めるのであった。
――《吾》は巨木か、否か? 《吾》は盆栽の古木か、否か?
それは《神》が巨木大だと、《吾》は盆栽の古木で、《神》が巨人族の眷属であるならば、《吾》は巨木に違ひなく、古木たる《吾》の大きさなどは、相対的な《もの》に違ひないのである。それ故に、《吾》が《五蘊場》の闇に籠城する《もの》であるならば、その時、《吾》の《五蘊場》に出現する《吾》と名指しされた《もの》は、盆栽の古木のやうに何百年もの星霜を経た《もの》に宿る或る威厳ある風情として、頭蓋内の《五蘊場》に巨大な巨大な巨大な木を表象させて、《吾》たる盆栽の古木に《吾》の表象を重ねながら極小から極大までを振幅を繰り返しながら、その表象された木は、《吾》の大きさに最終的には収斂してゆくのである。《吾》を虚勢を張った威容ある《存在》とでっち上げたければ、《五蘊場》に出現する《吾》と名指しされる木は、巨木の威容を備へてゐると一見見えるのであるが、しかし、それをよくよく目を凝らして眺めれば、しゅうっとその巨木は収縮し、玩具の如き木の芽に過ぎぬ事が闡明されて、《吾》は慌はてふためくのである。
――何たる事だ!
《吾》の擬態にまんまと騙されてゐたに過ぎぬ《吾》を自覚すると《世界》は一変するのであった。
ふうっと、仮象の轆轤首の《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》は全て一瞬にして霧消し、《吾》は《吾》の肉体に帰還し、不意に私は、《吾》に為る不愉快な時間を味はひ、眼をかっと見開いて《世界》の中にある《吾》といふ《もの》をして《吾》の《五蘊場》に楔を打ち込みながら、私はくっと歯を噛み締めて、唯、ぢっと《吾》たる《もの》に堪へるのであった。つまり、等身大の《吾》を《世界》の中に見出すのであった。さうして、私は頭蓋内の《五蘊場》を攪拌して、再び《吾》の仮象が出現するのを待つのである。実際、《世界》の内にある《吾》でゐ続ける事は、最早、苦痛でしかない私にとって《吾》の仮象を生み出す作業は、私が此の世で生き抜く最低限の智慧なのであった。
然しながら、私の想像は既に枯渇してまったに違ひなく、再び《吾》は轆轤首として私の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に表象されるのであった。それといふのも私は、既に《脳=内=存在》、つまり、《五蘊場=内=存在》たる事に徹する事で、《吾》が《吾》でしかない此の世の不合理に堪へ忍んで、《吾》は《五蘊場》の内なる《存在》として、生きる事を覚悟してゐたに違ひなかったのである。そんな《吾》が《五蘊場》に表象し得る《吾》は、つまり、《五蘊場》ばかり肥大化した首振り人形の如き轆轤首として現はれる外ないのである。既に《五蘊場》と肉体は分裂してしまってゐて、《吾》が語る言葉には、最早、感覚的な言葉は影を潜め、唯、《吾》の口からついて出る言葉に仮象を誘ふ言葉のみが重視されるのである。
五感は、既に過去の遺物でしかなく、五蘊のみが《五蘊場》に収斂した《五蘊場=内=存在》たる《吾》は、ドストエフスキイ曰く、「紙で出来た人間」宜しく、《吾》の餌は、最早、言葉となった《もの》しか受け付けないのである。勿論、食物を食べはするが、其処に《吾》は何の重きも置かずに唯の生命維持の為のみに食物を喰らふのであって、美味しい不味いの判断は既に《吾》から失われてしまって久しいのである。《吾》が望むのは食物も「何何に効く」などと効能を謳って言語化された食物を喰らふのであって、それが美味いか不味いかは二の次なのである。食物ですら言語化された《もの》として喰らふ《吾》が、《五蘊場》に自身を思ひ描くその道理は、
――初めに言葉ありき。
なのである。そして、それは、勿論、聖書の冒頭の言葉と同じ事は知りつつも、《吾》にとっては既にその言葉が持つ効能は、聖書のそれとは全く違ってゐて、《吾》が自身を思ひ描く《吾》なる《もの》は、言語化され得る《もの》のみで出来上がった下らぬ《五蘊場=内=存在》たる《吾》でしかなかったのである。
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪