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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 とはいへ、現時点では、《吾》の頭蓋内の闇たる《五蘊場》に閉ぢ籠る《吾》や《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、「頭山」の男のやうに自分の頭に飛び込んで死ぬ事はなく、自分の頭、つまり、《五蘊場》といふ《死》と紙一重の時空間に閉ぢ籠り、《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》はひそひそ話に明け暮れるのである。換言すれば、落語の「頭山」の男の自分の頭に飛び込んで憤死するその様相は現代では一変し、轆轤首と為った「現存在」は、自分の頭に、《五蘊場》を拵へて、仮象の轆轤首たる《吾》は、現実から逃げ果すべく、首をぶった切り、己の頭、つまり、《五蘊場》に飛び込み、溺死する事も叶はずに、《吾》の《五蘊場》に明滅する妄想の類に惑溺するのみで、《吾》は、詰まる所、安穏と頭蓋内といふ《五蘊場》に逃避し果せてしまふのである。さうして《吾》は、思考実験と言へば聞こえはいいが、何の事はない、《五蘊場》の中から傀儡の《吾》を見繕って仮象の人身御供として現実にその仮象の傀儡の《吾》を《吾》の存続の為に捧げるのである。
 そして、《吾》の身代はりで現実に捧げられた傀儡の《吾》は、《吾》に対して徹頭徹尾滅私奉公するのかと傀儡の《吾》が現実に嬲られ自爆する様を、一度じっくりと凝視すると、傀儡の《吾》は当然の事ながら、現実に抗ひ、現実を巧くいなして、思はず唸り声を発する程にそれは絶妙で感心する事になるのである。然しながら、傀儡の《吾》にとっては現実は当然、手に負へる《もの》の筈はなく、どんなに巧みに現実を躱さうと、最後のどん詰まりで傀儡の《吾》は、現実諸共木っ端微塵に破壊するべく覚悟を決めて現実を傀儡の《吾》に深く深く分け入る詭計を巡らした末に、最期に自爆するのである。
 さて、其処で問題になるのが、傀儡の《吾》の自爆装置のSwitch(スイッチ)はいづれの《吾》が所持してゐるかといふ事なのだが、自爆装置のSwitchは、当然、傀儡の《吾》が持ってゐる筈である。しかし、一方で、《吾》も《反=吾》、若しくは《異形の吾》も傀儡の《吾》の自爆装置のSwitchを持ってゐて、然しながら、《吾》はそれを只管行使する事は避けて、自爆する時は、全て傀儡の《吾》に任せっきりな筈とも考へられるのである。ところが、少し立ち止まってこの矛盾を自問自答すると、傀儡の《吾》を爆破させてゐるのはもしかすると、此の《吾》なのかもしれぬと合点がゆき、現実を巻き添へにして、傀儡の《吾》を爆破させてゐる此の《吾》のふてぶてしさには、《吾》ながら快哉、否、侮蔑する外ないのである。それでは、
――何故に《吾》は知らぬ存ぜぬと、これ迄《吾》を欺いてゐたのか?
 と、《吾》に問ふと、
――《吾》とは所詮、卑賤な《もの》の最たる《もの》の筈さ。
 と、《吾》は臆面もなく言ひのけるのである。
《吾》と傀儡の《吾》とのからくりが一度解かってしまふと、《吾》は己の悍ましさに自身を呪ひながらも、内心では、
――したり。
 と、嘲笑してゐる《吾》を見出して、尚更、《吾》は自己嫌悪のど壺に嵌るのである。さうなると其処は無間地獄の鳥羽口で、《吾》が《吾》に対して抱く猜疑の根深さは、《吾》の更なる分裂の引き金となって、《吾》は正気を保つ為に《吾》を嘲笑するその《吾》をぶん殴り、撲殺するのである。さうせずには仮初に《吾》が《吾》である一貫性が保持出来ず、用意周到な《吾》は、いざ《吾》が現実に対峙する段になると、再び傀儡の《吾》を現実に差し出す《吾》がゐて、然しながら、現実に差し出す《吾》が《存在》せずば、《吾》の《存在》が此の世に存続する事すら危ぶまれるのである。一度、《吾》が揺らぎ始めると、それは留まる事はなく、未来永劫に亙ってその揺らぎは続く《もの》で、《吾》が《吾》を疑ふといふ底無しの猜疑心は一度《吾》に萌芽すると、何としてもその生長を止める事は不可能であって、《吾》は《吾》の内部から腐乱し始めるのである。それは、巨木にはよく見られる現象で、中身が枯死し、刳り抜かれた巨木は極一般的な日常の風景なのである。つまり、深海の水底に屹立する《吾》たる巨木は、《吾》に対する猜疑心によって内部から腐り出して、巨木は外皮のみを残して中身ががらんどうの《存在》として深海の水底に屹立するのである。
 すると、自己増殖する《吾》といふのは、《吾》が《吾》に対して抱く願望でしかない事に合点がゆく《吾》は、
――ぶはっはっはっはっ。
 と、哄笑して、《吾》の間抜けぶりを自覚する事になるのである。
 さて、それでは、自己増殖する《吾》とは、一体全体何であるのかを自身に問ふてみると、それは、現実に対する《吾》の擬態であり、もしかすると、傀儡の《吾》の《存在》その《もの》が、全て虚構の白昼夢に過ぎず、《吾》を語る為に《吾》がでっち上げた語り得る架空の《吾》故に、《吾》は自己増殖すると《吾》は看做してしまったのかもしれないのである。つまり、《吾》とは、語り得る《吾》の《存在》をでっち上げて《吾》といふ《存在》に自己暗示をかけて、恰も現実に《存在》する如く、《吾》は《吾》によって空想する《もの》なのかもしれなかったのである。
《吾》が《吾》を語り得る《もの》として空想する事は、《吾》を言葉によって瓦解させる事を意味してゐると看做せなくもなく、敢へて言へば、さうしてでっち上げられた架空の《吾》は、先に《五蘊場》に閉ぢ籠った《吾》の事に違ひなく、元来、分裂してしまってゐるに違ひない《吾》は、《吾》を自己増殖させるべく《吾》の肥大化を企てなければ、《吾》の所在すら解からず仕舞ひな《吾》であって、《吾》が《吾》に対峙する跋の悪さは、《反=吾》、若しくは《異形の吾》との対峙の比ではなく、《五蘊場》の闇の中とはいへ、ちらちらと点滅する表象群の閃光に《吾》と対峙する当の《吾》の姿は、ほんのりと闇間に浮かぶのであるが、《吾》はその《吾》が轆轤首でなく、また、首のみの人魂の如き形をしてゐないといふ事に訝るのであった。
 と、そんな疑念が《五蘊場》に湧き起こると、そのでっち上げた《吾》は不意にその気配を消し、更に《吾》は、《吾》に対して不信の目を向けるのであるが、ところが、其処で《反=吾》、若しくは《異形の吾》が、
――くっくっくっくっ。