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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 闇に潜む事の快楽は、多分、何《もの》も知ってゐる快楽に違ひなく、然しながら、闇の中には魑魅魍魎が犇めく幻視に《吾》は慄き、足が竦むのであるが、しかし、それ故に、《吾》の思考は追い立てられるやうにして無限へと一足飛びで、そして、《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、闇の《五蘊場》に引き摺り出される事になるのである。つまり、窮鼠猫を噛む如く幻視して闇に出現する此の世の《もの》ならぬ魑魅魍魎に追ひ込まれるやうにして《吾》は逃げ回り、轆轤首の首をぶった切った《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》も無限を射程に収めながら、《吾》を時に無限の大河に身を横たへてゐるかの如くたゆたひ、時に無我の境地にも似て充溢した、それは《吾》を《無=点》と呼ぶべき零地点にゐる《吾》を自覚して《吾》があるといふ自在感を闇に見出すのである。
 とはいへ、《吾》は、深海の水底に屹立する食虫植物の如き巨木としての表象である事は已めずに、その巨木は、また、首の化け物として、思念のみが自在である《五蘊場》の肥大化の一つの形として、地には根を、天には枝葉を拡げて、つまり、その巨木は、巨大磯巾着の如くに深海の闇の中にゐる《吾》として《吾》を自覚してゐる筈なのである。それは、何の事はない、闇の中において《吾》が何《もの》であらうが全く問題ないのである。闇は、何《もの》も受け容れる貪婪な《もの》で、それ故に、《吾》は闇の中において魑魅魍魎を見てしまふのであって、《吾》もまた、闇の中においては異形の《もの》としてあるといふ事が可能であり、更には、闇において何《もの》も《吾》の極小と極大を同時に味はふ《吾》の無限性に驚く筈で、換言すれば、闇を嫌悪する《存在》は、自在感に恐怖する《存在》に違ひなく、それは、言ふなれば、《吾》が《吾》を自覚するのに鏡が必要な光の下の《存在》として、姿形が種により限定された《もの》で、また、それは、深海生物が海面から釣り上げられた時に浮袋などが膨脹して口から臓物が、そして目玉が飛び出た死体を晒す如くに、鏡面に映る《吾》の死に顔を、若しくは《吾》の死体を見出す事で、自由の不安からの解消を絶えず行ってゐるのである。
 鏡面に映る《吾》なんぞは《吾》の一様態でしかないのである。《吾》こそは様様な《もの》に変容する変幻自在な《もの》で、《吾》の本質なる《もの》を問ふてみると、それは、闇に行き着く筈なのである。更に言へば、《吾》は受精卵から細胞分裂を始めれば、此の世の全生物史を何か月間でか変態しながら、それが例へば「現存在」であれば、人となって産まれて来るのであるが、つまり、《吾》はそもそも全生物に為り果せるものであり、また、あらゆる《存在》に《吾》を見立てる事などお茶の子さいさいなのである。
 瞼を持つ《存在》は、多分、いづれも闇へと思念が羽ばたき、《吾》の無限相を知ってゐるに違ひないのである。つまり、薄っぺらな瞼を閉ぢる事で、眼前は薄っぺらな闇に包まれ、その闇が《五蘊場》と地続きな事が意識され、《吾》の棲み処が、その《五蘊場》に中心を置いた、そして、皮膚に包まれた肉体といふ、これまた闇にある事を自覚する筈なのである。
 それ故に、闇は一方で阿片の如く《吾》に作用する幻覚剤なのである。無限に憑りつかれた《もの》は、無限に惑溺し、そして、溺死する危険性に絶えず晒されてゐて、一歩間違へれば《吾》はその無限から最早一歩も踏み出す事なく、将に枯れた巨木その《もの》に為り果せてしまふのである。そして、闇は、《存在》を幻惑する《もの》で、闇に魅了された《もの》は、首のみを闇の中に自在に伸ばして何《もの》も轆轤首へと変化するのである。つまり、轆轤首とは《吾》の原点であり、闇にたゆたふ快楽を存分に味はふ事を知ってしまった《存在》に違ひないのである。
 さて、そんな轆轤首が居心地よく生息する《世界》とはどんな《世界》かと言へば、多分、妄想が生き生きと生きる仮想現実といふ時空間に違ひないのである。また、其処で生き生きする事こそが轆轤首たる所以なのである。静止したMonitorに映し出される動的な映像世界の断片は、例へば数理Model(モデル)で表現された幻想的なFractalな内容の《もの》もあれば、Cameraで写された現実の断片など、玉石混淆な、つまり、映像に出来る《もの》であれば何《もの》でも表現可能なMonitor画面において、《吾》が轆轤首であることは面目躍如としか言ひやうがないのである。少し考へれば解かる事であるが、Monitorに映し出される動的な映像に見入る《吾》は、視点を変へれば、首を伸ばして映像が捉へた《もの》をまじまじと見る轆轤首へと、Monitor画面に映し出される映像の動くままに見入った《吾》は、不知不識に変化している化け物にしか思へないのである。更に言へば、《吾》は轆轤首宜しく、一所に坐したまま、Monitor画面の映像は、何処へでも《吾》の首のみを連れ出してゆき、しかし、視聴覚と身体のこの断裂した有様は、将に轆轤首と看做す外ないのである。
 その轆轤首の《吾》が、深海の闇の水底に屹立する巨木、或ひは巨大磯巾着で、而も頭蓋内の闇たる《五蘊場》に閉ぢ籠る《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》であるといふ矛盾を、また、深海の水底に屹立する巨木たる《吾》とその巨木に絡まる蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》が互ひに闇を渇仰し、その枝葉を大きく拡げて闇を浴びてゐる有様との大いなる矛盾を、《吾》は「先験的」に捉へてゐる事が白日の下に晒された故に、「現存在」は、人間として此の世に《存在》する事を断念しなければ、此の世での《存在》を許されずに、「現存在」は、気が付けば己が轆轤首といふ化け物に変化してゐる事を知って愕然とするのである。そして、大概の「現存在」は己が轆轤首といふ化け物に変化してゐる事を自覚してゐるに違ひないのである。
 深海の闇の水底に屹立する巨木、若しくは巨大磯巾着の《吾》、それから、それに絡まる蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》、それから、頭蓋内の《五蘊場》に閉ぢ籠る轆轤首の首をぶった切った首のみの《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》、それから、その《五蘊場》に明滅する表象群の切片を食らふ食虫植物の如き《吾》など、《吾》が《吾》をして惹起する《吾》の心像は、即ち、その《もの》がてんでんばらばらに分裂した《もの》で、Monitor画面といふ時間を含めた三次元、若しくは四次元の映像世界に《吾》を無理矢理重ねてみて、つまり、轆轤首たる《吾》を自覚し、それに陶酔する《吾》に、果ては踏み惑ふ愚行を何度も繰り返しながら、遂には、自身が、巨木たる自身がぶっ倒れる事のみを夢見て、自己増殖する妄想に溺れるのである。つまり、それは落語の「頭山」に瓜二つな《吾》が、実在する事に《吾》は独り嗤って、仕舞ひに自分の頭に飛び込んで死ぬのである。