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積 緋露雪
積 緋露雪
novelistID. 70534
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審問官第三章「轆轤首」

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 と問ふ事は、そもそも《吾》が「先験的」に此の世に《存在》する事が前提となってゐるのである。つまり、
――《吾》とは何ぞや?
 と問ふ事は、木乃伊(みいら)取りが木乃伊になる事に外ならないのである。
 さて、其処で問題となるのが、《吾》とは、《吾》の究極の《存在》なのかといふ問ひである。つまり、《五蘊場》で分裂を繰り返す《吾》とは、もしかすると《吾》と《反=吾》との受胎、若しくは太極により、《吾》が《五蘊場》で分裂し、自己増殖する《吾》の様態に過ぎぬのではないかといふ疑念が発生するのである。そして、その《反=吾》が《異形の吾》の別称なのかもしれないと看做す《吾》は、《異形の吾》を摑まへにかかるのである。しかし、《吾》は首のみであるので、《吾》はどうあっても永劫に《異形の吾》を手で摑まへる事は不可能で、また、《異形の吾》は、つひぞその姿を《吾》の前に現はした事がない事に思ひ至り、唯、声のみが何処とも知れぬ虚空から轟き、さうして、不意に《五蘊場》に一陣の風が吹き抜ける事に思ひ至るのである。
 しかし、《異形の吾》が《吾》の前に姿を現はさないのは至極当然の事で、《吾》は、一度、轆轤首へと変化し、無慈悲な、また、悪意ある現実から遁れるべく、《吾》は、自ら轆轤首の《吾》の首をぶった切り、首のみの《吾》は《五蘊場》に閉ぢ籠るのであるが、さて、首のみと化した《吾》は尚も分裂し、自己増殖してゐるのかどうかと問へば、多分、木の年輪の如く、《吾》は自己増殖しながら、《吾》は《一》者として、《存在》してゐるに違ひないのである。
――ならば、《異形の吾》は、何処へと消えたのかね?
 との疑問が《吾》に生じるのであるが、仮に《異形の吾》が《反=吾》ならば、《異形の吾》は絶えず《吾》と相互作用しながら、その結果として《吾》の《五蘊場》に閃光が放たれ、《吾》なる《もの》の仮初の様態を、《五蘊場》に明滅する表象として現出させ続けてゐるに違ひないのである。つまり、首のみと化した《吾》と《異形の吾》は、雌雄の蛇の交尾のやうに、互ひに巻き付いく螺旋を為してゐるに違ひなく、つまり、《吾》といふ巨大化しつつある巨木に巻き付く《異形の吾》といふ蔦がぎりぎりとその巨木を締め付ける事で、《吾》の肥大化に待ったをかける自己調整機能が、《吾》にはこれまた「先験的」に備はってゐるに違ひないのである。つまり、《吾》あれば、即ち、《反=吾》、または、《異形の吾》は仮令姿は見えずとも「先験的」に《存在》してゐるのである。
 しかし、《吾》と《反=吾》、若しくは、《異形の吾》と分裂した《吾》の有様に、《吾》は絶えず戸惑ひ、《吾》は、何時も《吾》の手に負へない《もの》として《存在》してゐるといふ矛盾に思ひ至るのである。この矛盾は、然しながら、未来永劫解決される事がない《もの》で、つまり、《吾》が此の世に発生すると同時に《反=吾》も発生するのである。《吾》と《反=吾》の《対存在》は、さて、何故に《対存在》として此の世に出現するのかと問ふてみた処で、その答へは決して得られぬ《もの》で、何《もの》も《吾》が《存在》すれば、その必然として《反=吾》が《対存在》するといふ矛盾に《吾》を見失ふのである。つまり、《吾》が《吾》について考へる事は、必ず堂堂巡りに陥る筈で、堂堂巡りでない思考法は、それは一時凌ぎでしかなく、三段論法などの直線の如き思考法や正反合と止揚する弁証法もまた、一時凌ぎの《存在》が《存在》する為の智慧であって、それらの思考法で事の本質は一向に解決を見ないのである。
 先に《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》との関係を自己増殖しながら年輪を重ねる巨木とそれをぎりぎりと締め付ける蔦と見立てたが、さて、巨木が太陽光を渇仰して枝葉を大きく拡げるやうに巨木たる《吾》は、何かを渇仰するべく、蔦の間から枝葉を伸ばし、大きく拡げる筈であるが、さて、巨木たる《吾》も、蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》が何を渇仰して枝葉を大きく拡げてゐるのかを問ふてみた処で、直ぐには答へられぬ《吾》を、唯、噛み締めるといふだけの屈辱に苛まれる事になるのである。何故に《吾》に問ふ時に必ず《吾》は《吾》に対して敗北したかのやうな屈辱を味ははなければならぬかも、また、直ぐにはピンと来ないのであるが、しかし、この屈辱は、そもそも《吾》の《存在》に根差した感覚なのであって、《存在》は即ち、屈辱の別称である事が次第に闡明するのであり、さて、困った事にこの屈辱は《吾》が此の世に《存在》する限り、《吾》に、また、《反=吾》に一貫性を齎す《もの》で、不本意ながら、この《存在》に対する「先験的」とも言へる屈辱は、《吾》を此の世に《存在》させる原動力なのである。それは何故かと言へば、《吾》を此の世に根付かせるには自己肯定ではなく、徹底した自己否定においてのみであり、仮令自己肯定によって《吾》を称賛出来る《吾》が此の世に《存在》するとすれば、その《吾》は、既に変容する事を、つまり、生長する事を已めた《もの》でしかなく、その行く末は、蔦が宿主たる巨木を遂には枯らす如くに、《反=吾》、若しくは《異形の吾》によって《死》へ至らせられるべく自己決定した《存在》の断末魔でしかないのである。
 では、《五蘊場》で生長する巨木たる《吾》と、蔦たる《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、何を渇仰して、生長し続けるのかと問へば、それは、《吾》を無限へと誘ふ闇としか思へぬのである。つまり、《吾》も《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、光ではなく、闇を渇仰して絶えず生長してゐるに違ひないのである。といふのも、闇には魑魅魍魎が犇めき、《吾》はそのGrotesqueな魑魅魍魎といふ観念を欣求しながら、それらを糧に生長するのである。つまり、《吾》が此の世に《存在》し得るには、《吾》は《五蘊場》といふ闇の中で明滅する表象の切片を食虫植物の如き《吾》といふ巨木の葉で捉へて、《吾》の糧にするのである。それは、言ふなれば光無き深海の底に一本のみ屹立する巨木と蔦の如き《もの》で、その巨木と蔦の葉は、食虫植物の如く、若しくは磯巾着の如くある筈で、《吾》は、深海に降り注ぐMarine snow(マリン・スノー)の如き、表象やら観念やらの骸を糧にする事でやうやっと生存するのである。
 深海の底に屹立するGrotesqueな巨木。これが、《吾》の一つの表象であるが、その巨木をよくよく見ると、海底からぐっと首のみを伸ばした轆轤首であって、蔦に見える《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、十一面観音像の如く、《吾》の《五蘊場》に何相もの顔貌が見え隠れする異形の《もの》として、また、《吾》に巣食ふ《もの》として《存在》するのである。そして、闇故にその《吾》と《反=吾》、若しくは《異形の吾》は、生き生きとしてゐるのを見出すに違ひないのである。