審問官第三章「轆轤首」
それでは、《吾》なる《もの》が《一》者である事が何故に《インチキ》なのかといへば、《吾》が《吾》である事その《もの》が既に《インチキ》で、《吾》をして《吾》を《吾》と名指す欺瞞を、如何なる《吾》も知ってしまってゐて、さて、それが何故に欺瞞かと尚も問へば、《吾》の《存在》自体が、果たせる哉、《吾》の意思で出現したのかすら解からぬこの《吾》の《存在》の出自を「偶然」の《もの》として、不問に付して、例へば、「現存在」の此の世への出現は、その父母の精虫と卵子の「偶然」の受精によって《吾》が発生するとし、然しながら、精虫と卵子の受精が「偶然」と看做せるのかは、多分に意見の分かれる処で、仮に《吾》の此の世への出現は、宇宙開闢時に既に決定してゐた事だとしたならば、《吾》は《吾》をして、此の宇宙に対峙し、《吾》の解明と共に、宇宙をも、物質をも、数字をも全て解明する宿命にあるに違ひないのである。然しながら、その《吾》はといへば、此の現実に汲汲としてゐるばかりで、轆轤首と化して、頭蓋内の闇の《五蘊場》が表象する仮象界へと逃げ込んで、其処で《吾》は《異形の吾》との何時果てるとも知れぬ対話を繰り広げながらも、《吾》は、現実を《異形の吾》に呉れてやるのである。さうして《異形の吾》が、現実界において自滅する無様を見ては、《吾》は、独りほくそ笑み、さうして、《吾》は仮象の首をぶった切り、《五蘊場》に表象される仮象界の幻の中に羽化登仙するのである。
傀儡の《吾》が、《吾》の制御を失ふと、それは、《異形の吾》となるのは言はずもがなだが、つまり、《異形の吾》の淵源を辿れば、それは、何気なく現実逃避する為に《吾》が作り始めた傀儡の《吾》に至るといふ矛盾にぶち当たるのである。そもそも《吾》といふ《存在》は、その《存在》自体が矛盾に満ちた《もの》である事は今更言ふに及ばず、しかし、《吾》の《存在》が矛盾してゐなければ、《吾》はこれまた一時も此の現実に《存在》する事は、不可能に思へるのである。例へば、《吾》が《吾》にぴたりと重なっているといふ《存在》の有様では、此の《吾》といふ《存在》はその《存在》に一時も堪へられる筈もなく、また、《一》者といふ「単独者」として《存在》する《吾》は、現実を、若しくは《世界》を《一》者として背負ふには、《吾》の存続の《断念》が含まれてゐて、《吾》が《吾》にぴたりと重なった《一》者としての《吾》は、此の現実を前に自滅するべく定められてゐるに違ひないのである。それは、シャボン玉が此の世に儚く忽然と消ゆる如く、自己の存続が不可能である事が、《吾》の発生時に既に定められてゐて、つまり、《吾》なる《もの》には、《死》が予め埋め込まれてゐるのである。《死》が此の世に《存在》するといふのは、此の現実は、若しくは此の《世界》は、《吾》を《死》へと追ひ込むといふ事を意味し、つまり、此の世の《吾》に対する迫害は、《吾》が《死》すまで已めないとも言へるのである。勿論、此の《世界》は絶えず《吾》を鏖殺(おうさつ)する程に無慈悲である事は稀かもしれぬが、しかし、絶えず《吾》といふ《存在》の《死》は此の《世界》では起ってゐて、休む間もなく何《もの》かは常に《死》んでゐるのである。
といふ事は、《吾》にとっては、此の現実は、《吾》を直ぐにでも殺すべく、その匕首(あひくち)を突き付ける《死》の別称に違ひないのである。《吾》は《吾》とぴたりと重なる事を避けて、つまり、自同律を極力避けて、《吾》の傀儡を作り、その傀儡の《吾》が自爆する様を凝視する事で、此の現実が突き付ける《吾》の《死》に対する猶予を与へ、しかし、必ず《吾》に訪れる《死》をその場では傀儡の《吾》を使って躱してゐるのである。さうしなければ、芥子粒の如き《吾》が此の世で生きてゆくなんぞ出来る筈もなく、《吾》もまた、細胞分裂する如くに頭蓋内の闇たる《五蘊場》において、分裂を繰り返し、絶えず此の現実に差し出しながら、《吾》の存続を辛うじて為してゐるに過ぎないのである。それだけ、《吾》なる《もの》は羸弱な《存在》で、此の無慈悲な相貌を持つ現実に対して、《吾》が丸腰で打って出るには、余りに無謀と言はざるを得ず、《吾》は生き残る為とあらば、何でもする《もの》なのである。そのなれの果てが、《異形の吾》であり、轆轤首の《吾》となるのである。《吾》は、そのやうに変容する事で、やうやっと此の現実、若しくは《世界》に対峙し、《吾》は権謀術数の限りを尽くし、《世界》の《死》への誘ひからひらりと身を躱すのである。
ところで、《吾》とは、独りなのであるかとの疑問が湧くのであるが、多分、《五蘊場》においては無数の《吾》が《存在》するのは間違ひなく、其処には《吾》といふ名の異形の《もの》が犇めいてゐるに違ひないのである。つまり、《吾》とは、此の現実で生き残る為に分裂してゐて、そして、《吾》を統べる《吾》は次次と入れ代はり立ち代はり現はれては、ぐっと首を伸ばして、《五蘊場》を俯瞰し、さうして、現実に差し出す《吾》の首根っこを摑んで、その《吾》をして無慈悲な、若しくは悪意のある現実、若しくは《世界》の為すがままにさせて、詰まる所、現実に嬲り殺される《吾》を《吾》は凝視するのである。その現実に差し出された《吾》なる《もの》が現実に弄ばれてゐる間は、《吾》は安寧の中にゐられるといふ《存在》の、これまた無慈悲な有様に思ひを馳せつつも、《吾》は《五蘊場》に閉ぢ籠り、《異形の吾》や私に憑依した幽霊共と尽きども尽きせぬ対話を蜿蜒と行ふ事になるのである。
一方では《吾》が拵ゑた傀儡の《吾》が、無慈悲なる現実に嬲り殺されながら、一方で、首なしの《吾》が、その《吾》の首と《異形の吾》とが閉ぢ籠る仮象界をアトラスの如く全身で支へながら、《吾》は《五蘊場》の中で以って、《異形の吾》と此の《吾》の深層に沈み込んで、只管に《吾》の断罪を始めるのである。しかし、その断罪の仕方が現実程に無慈悲に行へる筈はなく、《吾》も《異形の吾》も《吾》を手緩く断罪しながら《吾》は常に《吾》を許すべく術がない《もの》かと思案してゐるのである。
それでは、何故に《吾》は、《異形の吾》と共に雁首を揃へて《吾》を断罪するのかと問へば、それは《吾》が何処までも矛盾した《存在》といふ事に尽きるのである。例へば、傀儡の《吾》が現実に嬲り殺される様が気になって仕様がないくせに、《吾》は絶えず平静を装ひつつ、現実の如くに眦一つ動かさずに傀儡の《吾》が遂には自爆する様を凝視しながら、その《吾》の首の《五蘊場》――これは仮象の《吾》の仮象の頭蓋内の闇――に《異形の吾》共を誘ひ、其処で《吾》は恰も《異形の吾》と対峙するかのやうな錯覚の中、《吾》は初め《異形の吾》に詰(なじ)られるがままに、《異形の吾》の叱責に対して黙してゐるが、一人目の傀儡の《吾》が自爆し、二人目の傀儡の《吾》を貪婪な現実に差し出すや否や、今度は《吾》が、《異形の吾》に問ふのである。
――《吾》とは何ぞや?
と。しかし、此の問ひは、そもそもが矛盾した問ひなのである。つまり、
――《吾》とは何ぞや?
作品名:審問官第三章「轆轤首」 作家名:積 緋露雪